万札の顔 第29回 廃藩置県

文聞亭笑一

白紙に、好き勝手に・・・絵を描いていく…これほど面白いことはないのですが、これほど難しいこともありません。先ずは何を描くのか、その姿をイメージできるかが問題です。

改正掛として集まった栄一たちには先進国・欧米のモデルがありました。

改正掛に集まった面々の多くは海外留学の経験者で、専門家と言うほどに習得してきたかどうかには個人差があったでしょうが、行政の「理念」「仕組み」「制度」「手順」の概略は理解していたはずです。

郵便、鉄道などは試行錯誤の連続だったでしょうね。わずか3年後の明治5年には

「♪汽笛一声新橋を はや吾が汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」

となります。

前回の最後の方に淳忠と共に富岡製糸場を創業した「お抱え技師」が登場しますが、あらゆる分野で外国人指導者が活躍します。

改革のために外国人を使う…という手法は明治維新のビジネスモデル発明の一つでしょう。

「日本のやり方、今までのやり方ではだめだ」と過去を全否定し、欧米モデルを「ありがたや、ありがたや」とおし頂いて問答無用と推し進める・・・これが明治方式、渋沢方式でもありました。

戦後の高度成長もそうでしたし、ゴーンに代表される平成のリストラ・ブームもそれでした。

世界の英知を結集し、早期に改革を成し遂げるには、最適かどうかは別として、最短の方法であっただろうと思います。

「学ぶ」の語源は「真似ぶ」だとも言います。習いごとの順序も「守 破 離」と言われています。

まずは師匠の言う通りやる「守」、真似ることからです。

大久保と栄一

先週の放送で、事あるごとに大久保利通が栄一たちの改正掛を批判し、ついには栄一のスポンサーである大隈重信を罷免してしまいます。

大久保が、なぜ栄一たちを認めなかったか?

答えは、なんとなく、単純であるように思います。

栄一はじめ旧幕臣の多くはフランスに留学しています。ナポレオン3世の最盛期のパリを見てきています。

一方、薩長や、西日本出身者はイギリスに留学した者が多く、ロンドンを理想とします。

そして、政府の外には勝海舟や福沢諭吉のようにアメリカを見てきた者がいます。更に、長崎でオランダと付き合ってきた大隈重信などもいます。「欧米」ではありますが、各国の国情はそれぞれ違います。 大久保のブレーンは、イギリス大使のパークスやアーネスト・サトウです。

旧幕臣の・栄一などナポレオンの息のかかった幕臣が中心となって改革を進めると、フランスの制度、方式が主流になり、イギリスの権益が損なわれます。

イギリスが支援して、フランス派の幕府を倒したのに、新政府がフランス方式に染められてしまったら「バカ丸出し」です。

大久保に対して強力なプレッシャーをかけていたと思われます。

倒幕の課程で支援を受けた英国に義理を返さなくてはならぬ…それが大久保の想いでしょう。

そういう上層部の苦悩を知りもせず、勝手なことをやりたい放題の大蔵省・改正掛・・・許せませんねぇ。

大隈をクビにして井上馨(門多)を送りこみます。

井上と伊藤博文は英国留学していますから、イギリス派と思ったのでしょうが、長州は英国に恩義を感じていません。

大久保の想いと裏腹に、伊藤や井上と馬が合う栄一たちは着実に改革を進めていきます。

西郷どん

戊辰戦争が終わると「おいの役目は終わりもした」と、西郷どんは鹿児島に帰り、悠々自適の浪人生活に入ります。

自分の役割を知っていた・・・というのか、「荒事師」つまり「壊し屋」としての自分を自覚し、新政府の創業には向かぬと引退していたのだと思われます。

明治初年頃の政府・太政官は、公家の三条、岩倉と薩摩の大久保、長州の木戸、土佐の後藤などが中心になって運営していましたが、薩長土肥の後ろには島津久光、毛利、山内容堂などの殿様が控えています。

島津の殿様が言ったのか、毛利の殿様が言ったのか

「大久保(木戸)、わしはいつ将軍になるのだ」と矢の催促があったと言われます。

殿様たちは「天皇を頂いて将軍が天下に任じる」という徳川300年、いや鎌倉以来の伝統から意識の転換はできていませんでした。

明治新政府にとって最大の敵は「殿様」でした。

この、殿様を退治することこそ新政権の課題です。

岩倉は見切っていました。

「大久保には島津の殿様を説得できぬ」

「木戸に毛利は落とせぬ」

「後藤に容堂は口説けぬ」

  ・・・やるのは西郷しかない。

廃藩置県

明治維新の最大の改革は「廃藩置県」であると言われます。

藩幕体制と言うのが徳川300年の基本構造で、地方自治による合衆国と言うのが徳川体制でした。

大名たちは幕府の管理下にはありましたが、よほどの不手際がない限り改易されることはありません。

地方自治を認められた半独立国です。だからこそ、薩摩や長州が財力を蓄え、幕府を凌ぐ軍備を充実させることができたのです。

経済・財政も藩の単位で動いていますから「藩札」の値打ちもピンキリでした。

武士、藩士は地方公務員です。徳川創業期には「改易」と言う倒産や、「移封」という転勤が頻繁に行われてリストラが行われましたが、赤穂浪士事件以降は反乱、反抗を怖れて改易や移封が減りました。

行政機構が固定化してしまいましたから武士(公務員)の活躍する機会が無くなりました。その分、最下位の、商人たちの活躍の場が増えました。制約がありませんし、あっても賄賂さえ弾めば何とでもなる世の中になりました。

江戸の中期以降は菓子折に小判を潜ませ

「越後屋、おぬしも悪よのぉ」「ウシシ、そういうお代官様こそ…」

という世界です。


明治新政府の財政を切り盛りしていたのが三井越後屋・・・当然の成り行きでした。

「戦が足りもさん」

反対する藩は「軍事力でたたきつぶす」という西郷の決意と、藩札の値打ちを吟味・精査し、太政官札との交換比率を設定した栄一たち大蔵省の事前準備で、決定から僅か4日後に廃藩置県が断行されます。

最強の反対派であった薩摩藩・島津久光が、西郷、大久保の連合で将軍への夢を絶たれました。

明治維新の仕上げともなる廃藩置県は、西郷が軍隊を待機させ臨戦態勢をとっていたにもかかわらず、一藩の反対もなく粛々と実行されました。

明治維新は無血革命と言われますが、戊辰戦争は流血の事件です。万余の戦死者が出ています。

しかし、本当の維新・革命である「幕藩体制の終結」「地方分権から中央集権への移行」である廃藩置県では一滴の血も流れていません。

無血…にふさわしい結果でした。