どうなる家康 第22回 鉄砲三千丁

作 文聞亭笑一

前回の放送のタイトルが「走れ、走れ、強右衛門」でした。

たまたまの一致でしたが、私の頭にあったのは「♬走れ、走れ、コータロー」でしたが、脚本家の思いはどうでしたかね。

それにしても強右衛門の衣装はやり過ぎですねぇ。

奥三河は「山家衆」と呼ばれていましたが毛皮を着ているほど野蛮でも、寒くもありません。

それに、毛皮を着たままトライアスロンができるわけがありません。

また、奥平と亀姫の婚姻を信長が決めたような流れでしたが、これは全くの虚構ですね。

このことに信長は関与していません。

家康の判断です。

「どうする・・・」と上位目線のタイトルをつけてしまったので、仕方なく家康を矮小化していますね。

鉄砲3000丁 三段打ち

あまりにも有名な長篠の戦いの軍事革命・・・ですが、通説の怪しさが指摘されています。

まずは信長が用意したという火縄銃の数ですが、その根拠となる岡山/池田家の文書では「千」と書かれた上に、脚注として「三」が追記されています。

これを以て3000丁としたのが明治の陸軍参謀本部ですが、武器革命、武器の技術革新の大切さを強調にするために数を水増ししたとも考えられます。

「三」を追記したのは江戸時代の甫庵太閤記が「鉄砲三千丁」と宣伝したため、戦争に参加しなかった岡山・池田家はそれを鵜呑みにして「三」を追記したようです。

白髪三千丈の類いの修飾でしょうか。

火縄銃の三段打ち、これにも疑問が呈され、近年に実験が行われています。

実験の結果は「無理」でした。

短時間に発射、銃身掃除、弾込・・・という作業はできませんでした。

三段打ちとは・・・同じ銃を使った数度の発射ではなく、数十人規模の銃撃隊が、代わる 代わるに斉射したと観た方が良さそうです。

ともかく千丁の鉄砲というのが桁違いで、その轟音に馬がおびえてしまった・・・のが、武田の敗因ではないかと言われます。

馬防柵

戦国最強と言われた武田騎馬隊、これに対抗する戦術として信長が考案したのは馬防柵でした。

攻めるのではなく守りです。

野戦・・・平地での合戦・・・において騎馬突撃は戦車です。

歩兵は蹴散らされます。

スピードと重量とで人力では対抗できません。

ただ、騎馬兵力の欠点は・・・馬という動物が実に臆病な動物であるということです。

馬術競技程度の柵なら飛び越えますが、一定の高さを持つ柵に馬は体当たりなどしません。

停まるか、竿立ちするか、戦車としての威力を発揮できません。

そこへ、百兆、千丁による一斉射撃の鉄炮の轟音が鳴り響いたら、馬がパニックになります。

武器であるべき馬が、武田軍の指揮系統をかき乱してしまいます。

このことを、武田勝頼も、山県、馬場、真田といった武田の老臣達も読めませんでした。

混乱する戦場で武田軍の将校達が狙撃兵の餌食になっていきます。

信長が持ってきた鉄砲の射程距離も伸びていたのです。

勝頼はなぜ退却しなかったのか

武田軍と織田/徳川連合軍が設楽ケ原の戦場に陣取ってから、合戦を始めるまでに二日間あります。

その間に信長はせっせと馬防柵という罠を仕掛けていました。

その状況は武田の忍び達や、偵察隊が逐一報告していたはずです。

しかも、兵力は38000対15000と武田方に不利です。

騎馬隊がある、兵の能力が違う・・・と贔屓目に見ても2:1の戦力差です。

明らかに劣勢なのです。

その上、戦力の大きい方が馬防柵などと言う陣地を作って待ち構えています。

「城攻めでは3倍の兵力を」とも言われます。

守る兵に対してはそれを凌駕するだけの兵力が必要なのです。

実際に目の前の長篠城は15000の兵力で300人に籠もる城を包囲しているのに落城していません。

信玄ほど精通していなくとも、勝頼も孫子の兵法は勉強していたはずです。

孫子の基本は「勝てる戦いはする。勝てぬ戦いはするな」

本来なら、一旦矛を収めて信濃から甲斐へ退却するのが当然の判断です。

馬防柵などで守備体系を構築している織田軍が早急に追撃戦に移りはしないでしょう。

逆に、馬防柵が邪魔になります。

偽情報、情報作戦、信長の謀略が想定されます。

「佐久間信盛が裏切る」という情報が流れます。佐久間は織田軍の5000近い兵を指揮しています。

この戦力が裏切って、味方を後方から攻撃したら・・・織田軍は大混乱に陥ります。

勝頼はこのガセネタを信じたのではないでしょうか。

もしかすると「誓詞」などと言う偽情報、空手形も使われたかもしれません。

ともかく、勝頼の戦略的判断の失敗、外交下手は致命的で、その後も外交上の失敗を繰り返し、上杉、北条などとの外交を含め四面楚歌となっていきます。

今回の古沢脚本は勝頼の心理、判断をどう描くか、楽しみです。

信康の参陣

設楽が原の合戦には家康の長男/信康が参戦しています。

信康が指揮したのは岡崎衆ですから西三河の軍団で、実質は石川数正が束ねています。

信康にとっては初陣というわけではありませんが、大軍同士の激突という点では初体験だったでしょうね。

それが鉄砲の一斉乱射という前代未聞の展開でしたから衝撃が大きかったと思います。

その後、精神を病んだような症状が出てきたようなので、戦争でのショックが影響したのではないかと思われます。

恐怖心もさることながら、残虐な場面を目にすることも精神を傷つけます。

その意味で最近の劇画などの凄惨な殺人場面などは社会悪の一つではないかと思います。

映倫はエログロだけではなく、残虐表現も取り締まった方が良いのではないでしょうか。

管理指向云々・・・と反対する向きもありますが、今回の「どうする家康」も少なからずやり過ぎ表現が目立ちます。

精神を痛める若者が出ないことを祈ります。

とりわけ信長のやることが極端ですね。