八重の桜 27 籠城戦

文聞亭笑一

古い写真を紐解いていたら、昨年春に函館の五稜郭を見学した際に撮った大砲の写真が出てきました。右側が黒田清隆率いる官軍・薩摩の大砲です。左側が榎本武揚率いる幕府軍の大砲です。一見いただいてわかるように幕府軍の方が大きくて、見るからに重そうですね。その分だけ機動力に劣ります。この写真を拡大してみていただければ歴然としますが、幕府の大砲は肉厚があって鬆(す)だらけです。鋳造技術の未熟さが良く見えます。

大砲の鋳造には反射炉が必要ですが、戊辰戦争の頃に反射炉として使えた設備は、幕府が江川太郎左衛門に築かせた伊豆韮山と、佐賀藩が領内に築いた設備の二か所が知られています。特に佐賀藩の鋳造所はアームストロング砲という当時の先端技術を習得していました。射程、命中率ともに桁違いの威力だったようです。

八重は、砲兵隊を率いて官軍の砲撃に対抗しますが、武器の威力の差は、射撃技術では埋めようがありません。

真田藩が陣取っていた官軍の砲撃陣地には、次々と新式の大砲が補給され、砲撃は日に日に激化します。会津藩の勇猛さを恐れた官軍は、肉弾特攻を避けて、もっぱら高地からの砲撃に徹します。この戦術、60年後には米軍が日本兵のこもる硫黄島、沖縄に向けて仕掛けてきました。艦砲射撃というやり方です。薩長が中核となっていた旧日本軍は、会津で自分たちが成功した戦術で負けてしまいました。

知っていることと、出来ることの違い…ここのところを誤認するのが世の常です。とりわけ、現場の状況を知らない後方部隊が主導権を握ると、物事はうまくいきません。震災復興の遅れも、霞が関主導の弊害で遅々として進みませんね。

ついでですから、大砲の弾丸について述べておきます。テレビ映像では大砲玉が着弾と同時に破裂していますが、この当時の弾丸は現代の打ち上げ花火と同じで、導火線方式で破裂します。着弾しただけでは破裂しません。導火線の火が内部の火薬に着火して、爆発します。従って、大砲玉が転がってきたら水をかけるか、濡れた布で冷やしてしまえば不発弾になります。籠城した八重や会津の女たちは専らこの役回り、不発弾化で活躍しました。もちろん、間に合わなければ爆死します。負傷兵が大勢収容された建物の縁の下に転げ込んだ大砲玉を追いかけて、不発弾化した女性の活躍などが戦後の証言で残っています。

ただ、この作業には水が不可欠です。会津若松城の井戸水は籠城する人たちの飲料水と、大砲玉の冷却で消費され、枯渇していきます。これが、落城にボディーブローのように効いていきました。会津藩の捨て身の不発弾化作戦も、官軍の物量作戦には抗しようがなかったのです。今週は「会津おんな戦記」(福本武久)から引用します。

……と、ここまで書きましたが、NHKはどうやら籠城戦を4回にわたって放映するようです。2回?と踏んでいた私の見積もりが大きく狂いました。確かに、先週の放送では西郷家の自決、白虎隊の自決、北出丸での銃撃戦…そこまででしたね。先に進みすぎてもいけませんので、用意した記事は来週以降に回し、記事を追加します。

105、涙橋の戦いに先立ち、中野竹子、その母こう、妹優子、神保雪子、依田まき子、依田菊子、岡村ます子等二十余人、慨然として国難に殉ぜんと欲し…(略)
…滞陣の軍将に面し従軍を請う。(略)
衝鋒隊に従い縦横奮闘し、竹子ついに弾丸に当たり柳橋に死す。歳22なり。
神保雪子も奮闘し敵弾に倒れる。歳23なり。(山川健次郎編、会津戊辰戦史)

会津娘子軍については前号でも触れましたが、より詳しく触れてみます。今回のドラマは女性の働きを中心に描いていますからね。

坂下(ばんげ)に向かった中野竹子たちは、照姫避難の噂が虚報だと知っても、引き返して、城に籠るには遅すぎました。城の周りは既に新政府軍に包囲されていたのです。ただ、会津軍の青龍、朱雀といった精鋭部隊や、幕臣、新選組などは城外で戦っています。

その一隊、衝鋒隊に加わることになります。この隊は幕府陸軍の脱走兵たちです。

幕府陸軍は総裁の勝海舟が「恭順」と決めていますから、それを是としない大鳥圭介以下は、駐屯先の宇都宮から会津へと転進しています。形の上では脱走兵ですが、幕府陸軍の主力とも言えます。兵器も新式ですし、フランス式調練も受けていますから、精鋭部隊と言ってもいいでしょう。ただ、会津兵のように「命がけ」ではありません。

竹子たちは銃撃戦の後の白兵戦に加わるべく、後方に控えることになります。

官軍も、主力の薩摩、土佐のライフル部隊は城下突入に向かっていますから、寄せ手の軍勢は旧式銃の諸藩寄せ集めですね。連続射撃はありませんから十分に戦えます。

この戦、涙橋とも、柳橋とも書かれています。多分、柳橋が本来の呼称で、涙橋は竹子以下の奮戦を思い、後からつけられた贈り名でしょうね。

引用した文章は、後に白虎隊総長と呼ばれた東大総長、山川健次郎(八重の副官として活躍)が編集していますから、会津側から見た戦記です。

106、三日目の夜明け、八重は尚之助と共に北出丸に立った。
家老・西郷頼母と、子息・吉十郎が従者10人とともに、眼下の西門からひっそりと出立していく。頼母は、城外に陣取る家老・萱野権兵衛に藩命を伝える使者として、出立すると伝えられていた。

西郷頼母は、籠城の仲間たちから嫌われ、実質的には追放されます。

なぜそうなったか? 頼母は首尾一貫講和を主張していたのですが、籠城してからは、一転して玉砕論を唱えます。これは無理もないことですが、頼母はすでに妻・妹・娘たち一族全員が自決したことを知っています。破れかぶれというか、すべてを失って自暴自棄になっていたと思います。

容保以下、会津藩としては、そういう主張に同調はできません。城内には家族を含めて藩士たちがいます。幕府や他藩からの応援者もいます。太平洋戦争の「一億玉砕」と同じ主張に同意はできません。ですから「追放」となります。討手(暗殺者)すら出されたようですが、討手は仲間割れと見られたくないと引き返しています。

今回の脚本は頼母に好意的ですが、非常時にあって我を通そうと和を乱す言動、行為はいかがなものでしょうか。福島原発の3日間を振り返りながら、あれこれ考えます。

107、小田山は鶴ヶ城の東南にある小高い山で、城までの距離はおよそ12丁ばかりである(1300m)。城の全景を見下ろすことのできる要害の地であった。
25日、この地は既に官軍の手に落ちていた。

会津若松城のアキレス腱は、この小田山でした。かつて、上杉景勝、直江兼続もこの地を領したとき、この欠点に気づいて神指(こうさし)原(はら)に城を移そうとしていたのです。

「ここに大砲を据えられたら…」という危惧は山本覚馬、川崎尚之助の二人とも、最も警戒していたことなのですが、ついに現実になってしまいました。覚馬、尚之助と佐久間象山の塾で同門だった信州真田藩士たちが、この山を見逃すはずがありません。真っ先にこの山を占拠し、佐久間象山直伝の大砲を据え付け、砲撃を開始します。天守閣などは、厚い漆喰で守られていますからビクともしませんが、避難している家族の住まいなどは爆破されます。城中に負傷者が一気に増えだします。

108、八重は、消し止められた敵の砲弾を抱えて黒鉄門(くろがねもん)に向かった。容保が砲弾の仕組みについて説いて聞かせよと命じられたのは、砲撃が始まってから死傷者が目立って増え始めたからである。

容保の周辺に敵の武器について語れるものがいなかった…という事実が、会津の負け戦、戦略、戦術の拙(つたな)さを証明しています。背後の小田山から一日に2000発ほど撃ち込まれる砲弾に、次々と犠牲者が増えていきます。

「なにをいまさら…」という感がありますが、覚馬や尚之助の軍制改革提案を拒んできた重臣たちですから、「槍の保科、槍弾正」の伝統と誇りが全体を支配していたのでしょう。

伝統を大切にすることは良いことですが、伝統だけでは生き残れません。こういうことは企業経営でも同じですね。憲法も同じです。70年間平和主義一辺倒の伝統は貴いことですが、それだけでは世の中の変化に対応できないと思いますよ。