水の如く 26 毛利攻め

文聞亭笑一

今週は、急に時計針の回転が速くなりそうですね。秀吉の毛利攻めと、信長の武田攻めが同時進行しそうな気配です。官兵衛の淡路・阿波での活躍は無視されるようですね。

司馬遼の「播磨灘物語」では信長による武田攻めはほとんど触れられていません。官兵衛も、秀吉も無関係でしたから、さもあらんと思います。が、信長にとっては喉に引っかかっていた小骨が取れるような快事でした。信長が終生怖れた相手は武田信玄と上杉謙信で、この二人は既に亡くなりましたが、それでも、両雄が残した「人材」という遺産には警戒を怠りませんでした。慎重なうえにも慎重な情報収集と調略をしかけ、石橋を叩いて渡るほどの注意を怠りませんでした。先ず武田に手を付けたのは、勝頼には叔父にあたる木曽の木曽義昌と従兄の穴山梅節が織田方に寝返ったことでした。「身内が割れている」という確証をつかんでからの進軍です。しかも念には念を入れ、木曽からは滝川一益の軍団と長男・信忠率いる織田本隊を侵入させ、駿河口から徳川家康の軍団を送り込みます。

武田軍は信濃、甲斐の狭隘な谷で迎え撃とうとしますが、身内の木曽、穴山が寝返ったという情報で飯田、諏訪、松本などに配置されていた軍団は、言葉通り蜘蛛の子を散らすように山中に逃げ散ってしまいます。唯一抵抗したのが武田勝頼の実弟で、高遠城(伊那)を守っていた仁科五郎信盛でした。わずか3千の兵で、信忠率いる3万の軍勢を引き受けて玉砕しています。高遠城址に咲く小彼岸桜が「仁科の血の色」といわれる所以です。

先日、仲間たちと久しぶりに桜を観に行きましたが、歴史を知っての花見は、一味違う感激を呼びます。友人の一人が作った句「もののふの 定め悲しき 花吹雪」が雰囲気をよく伝えてくれました。

勝頼は諏訪から、中央線ルートから大月経由で北条に逃げようとしましたが、大月城主・小山田一族の裏切りであえない最期を遂げました。諏訪で、真田昌幸に勧められた中山道ルート・佐久から沼田に逃げていたら、彼の人生は変わったかもしれません。が、滅びる時は誤判断が続くものです。貧すれば鈍しますね。

101、宇喜多直家の葬儀を秀吉が主宰し、そのまま軍勢を岡山城にとどめ、葬儀に引き続いて八郎の後見人になる。秀吉が八郎を膝に抱いて、その権威によって宇喜多家の指揮権を握るということだった。岡山、宇喜多勢は毛利攻めの前線拠点であるだけでなく、織田の軍法により毛利への先鋒となる。

宇喜多家を乗っ取る手法は、後に織田家を乗っ取る時と同じです。幼君の後見人として君臨してしまうという方法で、傀儡政権そのものですね。現代でも、あちこちの国々でこの手法が使われています。宇喜多八郎…後の秀家です。

秀吉は戦わずして備前、美作の2か国を手に入れましたが、引き取った家臣たちは直家の教育よろしく(?)曲者ぞろいです。後に大阪の陣で千姫問題を起す坂崎出羽守を筆頭に、宇喜多家の内紛を起し、関が原では次々に徳川に走ります。今の岡山県、古代からの豊かな土地柄だけに商才があり、政治感覚に手慣れていた伝統でしょうか。

ともかく、宇喜多勢1万の兵力は貴重です。羽柴軍2万に加えて3万の兵力で山陽道を西進します。まずは、備前の隣、備中が標的です。

102、備中に毛利方の7つの城がある。
北から数珠のように縦に並び、南端は数城が固まっている。最も北の山間部にあるのが宮路山城、ついで谷を出たところに冠山城、平野に出たところに高松城がある。その高松城を囲むように日幡城、松島城、加茂城、庭瀬城があった。

中国山脈はそれほどの高山もなく、比較的なだらかな地形ではありますが、それでも山また山が続きます。高松城を囲むように四つの支城があり、さらに山に向かって防衛線が伸びています。そして、その後方の備後三原には毛利軍山陽道の総帥・小早川隆景の三原城が控えています。毛利の戦略としては、備中の防衛線に織田軍を釘づけにし、山陰道の吉川元治の軍勢が中国山地を越えて横合いから織田軍を分断する、さらに村上水軍を後方に回り込ませて、挟み撃ちにするという形をとりたいのです。特に水軍は機動力を発揮して神出鬼没の動きができます。秀吉軍の手薄なところを狙って上陸作戦を敢行し、混乱させるというゲリラ戦も可能です。布陣だけ見たら…なんとも厄介な敵です。

こういう布陣を見ると、なんとなく詰め将棋か詰碁の棋譜のようですね。毛利の構えは万全です。うかつに主将のいる高松城に攻撃を仕掛けたら、それこそ…飛んで火にいる夏の虫です。この日のために…官兵衛はありとあらゆるルートを使って7つの城の守将の癖や性格などの情報を集めていました。各個撃破し、高松城を孤立させる手に出ます。

103、羽柴方は北の小城から攻め始めた。宮路山城を落とし、加茂城にかかる。この城を守るのは毛利から派遣されてきた桂民部である。毛利の縁戚で、重臣で、鎌倉期にはすでに地頭としてこの地に赴任している家柄である。
明治維新で活躍した桂小五郎や、総理大臣をした桂太郎などはその末裔である。

まず、山間部の宮路山城を宇喜多の兵に攻めさせます。谷の出口をふさいで、山陰との連絡を遮断します。ただ、この城には随分と犠牲も出しました。宇喜多兵の命令系統が不確かで、数を頼んでの力攻めでしたから効率の悪い戦い方です。

官兵衛は、この戦いに敢えて介入していません。宇喜多のやる気を高め、本気にさせるには、犠牲が多い方が良いと考えたのでしょう。

そして、次の加茂城から……官兵衛らしい手を使い始めます。この城の城主・桂民部が毛利本軍の重臣であることを知り抜いた上で、囲みの一方を空けて攻めます。数百人が守る城に1万人以上が攻めかかりますから、城兵は我先にと開いたところから逃げ出します。秀吉が三木城、鳥取城でやった兵糧攻めという手法は、毛利方城兵も知り抜いています。とりわけ鳥取城での悲惨さは恐怖心を与えます。城は短時間で落ちました。

桂家という家柄は鎌倉時代に毛利から枝分かれした一族です。毛利家が鎌倉政権の参謀長というか、政権基盤を作った立役者・大江広元の家系であることは知られていますが、広元が相模の領主であった時代に桂の庄に分家し、毛利が安芸に移るときに同道していますから最古参の家臣でもあります。

104、備中高松城は低地にある。その北側は峰々が重畳として連なり、野になる辺りに平磁路である高松城があり、山陽道随一の名城といわれるだけの地の利を占めている。その脇を足守川が流れていた。さらに、この城を囲むように日幡城、松島城、加茂城、庭瀬城の4つの城が控えていた。
「難しい城だな」 秀吉は官兵衛に何度もつぶやいた。

さらに、高松城を取り巻く4つの城には裏切りを誘います。ここも、根っからの備中人は少なく、備後や安芸からの出向者が城主を務めています。郷土愛が薄い…、従って城を枕に玉砕はするまいという読みですが、その通りの結果になっていきます。主将を殺害して秀吉軍団に寝返る者、逃げ出す者、備中人の清水宗治の指図を受けるのが嫌な者などで、次々と落城していきます。

逃げ出した者は、なにやかやと理屈を付けますが…やっぱり死ぬのは嫌なのです。戦国時代といっても「命あっての物種」という感覚なのです。現代人と価値観が違うわけではありません。それを敢えて武士道などという言葉で装飾したのは江戸幕府や、明治政府以降の軍国主義者です。

さて、支城をすべて取り除いても…備中高松城は攻めるのに難しい城です。平城ですが周囲は湿地帯ですから道は一本しかありません。そこから攻めたら…まるで屠殺場のようなもので、わざわざ死に行くようなものです。

もう一つ、秀吉と官兵衛に読み切れないことがあります。それは毛利本軍が総力を挙げて高松城の救援に出動してくることです。来るとすれば3万、この数は秀吉が引き連れている人数と同数です。しかも、秀吉軍には宇喜多勢1万という厄介な味方がいます。直家以来の伝統といおうか、裏切りなどは何の心の痛痒を感じない者たちの集まりです。仮に、宇喜多が秀吉方なら3万:3万で五分ですが、敵に回ったら…勢力は2:4になり、敵は味方の倍になります。しかも、宇喜多の本拠地は後ろにありますから秀吉軍は逃げ場を失います。

後の、中国大返しで秀吉軍が姫路までを全速力で駆け抜けたのは、一刻も早く宇喜多勢力圏を抜け出したかったからではないでしょうか。まさに、命からがらの逃避行にも見えます。宇喜多勢、いわゆる第3勢力ですね。政局のキャスティングボードを握ります。

が、決して主役にはなれない勢力です。イソップ物語の蝙蝠(こうもり)です。信用されません。