乱に咲く花 30 平和ボケ

文聞亭笑一

人間は他の生き物同様に群れを作って生きる動物ですが、群れの規模が一定以上の規模になると党派ができます。この規模がいかほどかは法則性などなく、「課題」次第ですね。課題が具体的で目に見えるものであればたった二人でも分裂しますし、政治や思想と言うような抽象的課題であれば、大規模な人間集団同士が党派に分かれて争います。

目下、国会を賑わせている安全保障問題も「改憲か」「護憲か」というせめぎあいで、憲法という曖昧模糊な概念を言い募りますから、妥協点などはなかなか見つからないでしょうね。ことは、日本、または日本人の防衛のために活動している同盟軍が攻撃を受けた際に、日本の軍隊がどう対応するかという話です。そうそう・・・軍隊といってはいけませんね。自衛隊と言わなければならないことになっていますが、誰が見たって軍隊ですよ。

それとは別に、経済政策でも大きな流れに分かれますね。国家の収益をいかにして拡大するか…つまり、パイを大きくする方向に行こうとする勢力と、パイの配分に重点を置く勢力に分かれます。日本の場合、国土と人口を考えればパイを大きくするためには海外進出、交易拡大は必須条件になりますが、配分重視で行くならば縮小均衡策・・・つまり、自給自足可能な範囲への人口抑制と、生活水準の切り下げが必要になります。

長州藩が幕末のこの時期、右に左に揺れていたのは…まさにこの問題でした。

長州藩にはすでに政党らしいものがあった。それも、単なる派閥ではない。
二つの党があり、それぞれに立党の思想を持ち、それによって行動していた。一方は村田清風を党祖とする改革派であり、もう一方が坪井九右衛門を党祖とする俗論党である。

「俗論党」とは、後に勝者となった改革派が相手を卑下して付けたものですが、いわば体制党、佐幕党、保守党というべき政党です。徳川三百年の伝統的政治体制、経済政策を維持しつつ、世の流れに沿って少しずつ軌道修正していこうという考え方で、言い換えれば穏健派といえます。

一方の「改革派」は幕府経済体制の基本である農本主義から抜け出して産業国家に変えていこうという考え方です。農業中心の幕府体制を商工業中心に変更しようと言うもので、この考えの中に「尊皇攘夷・幕府体制否定」の思想を注入したのが吉田松陰であり、その提言を推進した周布政之助です。さらには久坂、高杉といった松下村塾の門下生が実行部隊として加わります。

長州藩の面白い所は、この二大政党がある一定周期で政権交代をすることですね。どちらも…やり過ぎて自滅するのです。ただ、他の藩が行ったような反対派の粛清をしていません。そう云う点では近代的というか、当時にあっては珍しいことでした。

一つには、代々の藩主が政治に口を出さなかったからかもしれません。毛利藩には名君と呼ばれる人も、愚君と呼ばれる人もいませんね。現代の象徴天皇のように、「そうせい」とだけ発言して臣下の裁量に任せるという態度であったようです。

・・・ところが、文(美和)が奥勤めを始めた頃の政変は、その伝統を壊しました。幕府への降伏条件とは言え、反対派の粛清を始めました。かつて政治犯でも血を見ることはなかったのですが、斬首、暗殺などが日常茶飯事になってきます。

征長総督の名古屋藩主・徳川慶勝が長州藩に示した降伏条件は5点であった。
①藩主親子は蟄居謹慎すること
②蛤御門の変を指揮した3人の家老は切腹すること
③その家老に従って参謀を務めた4人は斬刑に処すること
④藩内に匿っている7人の公家たちを大宰府に移すこと
⑤山口の新城を破壊すること

前号での話の繰り返しになりますが、条件の⑤については今週のNHKドラマとの関係が濃いので再掲しました。

幕府の法によれば、一国一城という規定があって、長州に城が二つあるのはケシカランということになります。しかも、東照権現様(家康)が萩という不便な場所に押し込めたものを、勝手に交通の要衝に政庁を遷すとは・・・ますますケシカランという理屈です。

この要求に、椋梨藤太いかの保守党は易々として従います。ただ、山口の政庁は「城ではない」として査察を求めます。城と言えば城、御殿と言えば御殿ですが、査察に来た尾張藩士を接待と脅迫で籠絡し、入り口の門だけ壊して破壊したことにしてしまいます。これを受けて12月27日に尾張公は征長軍を解散します。終戦ですね。

文(美和)を始め、長州藩大奥の女性たちにはリストラ、転居と大事件でしたが、それ以上に幕府の内部は大騒ぎです。「甘すぎる」という慶喜や会津・桑名の在京政権と、「やれやれ」という将軍家茂と老中以下の江戸政権との間の溝が広がっていきます。幕府は既に二元政治といおうか、江戸と京都でバラバラの判断をするようになっていました。

「征長総督の英気はいたって薄く、芋に酔ったのは酒よりもはなはだしい。

芋の銘柄は大島とか申すそうだが、本当か」

これは慶喜が熊本藩主・細川護美に出した手紙の一節です。「芋」とは薩摩、「大島」とは西郷吉之助のことですね。この当時西郷は大島吉之助とも名乗っていました。

慶喜はこの講和には反対で、長州藩の減俸処分は必至と主張していたのですが、将軍が裁可してしまっては口出しできません。また、口出しできる状況でもありませんでした。

慶喜の本家である水戸藩の攘夷浪士たち、「天狗党」が大挙して中仙道を京に向かって進軍していたのです。武田耕雲斎、藤田小四郎を中心とする天狗党は千人近い数で中仙道を押し上り、水戸斉昭の後継者と期待する慶喜に「攘夷」を強要しようというのです。中山道沿いの諸藩は、この対応に忙殺されていました。高崎藩のように上洛阻止と戦った藩もありますが、多くの藩は阻止のために兵を出し、攻撃したふりをして「京の方面に逃げ去った」と報告して、お茶を濁します。攻撃もせず、出陣だけして…自藩を通らない抜け道を教える藩もありました。

信濃には 浪士に打ち勝つ武士はなし 田作りばかり出汁(だし)に使って

仮病の急病人が続出し兵が集まらず、農兵を差し向けた藩への皮肉の落首もあります。

ともかく、天狗党事件は幕府の弱さ、指揮権の届かないさまを露呈しました。

高杉は九州の地で、長州に味方してくれそうな藩を探していた。対馬藩のような小藩にまで、期待をかけていた。が、対馬藩士はにべもなく言う
「長州藩がやった二つの大きな失敗は大きかった。大挙して京都に攻め入り蛤御門で幕軍に敗れたこと、下関海峡で4か国艦隊と戦い、攘夷・攘夷と言いながら数日の戦で降参してしまったこと、この二つは長州藩の世間に対する声望を一気に地に落とした」
時の勢いで世間は動くが、時の勢いが去れば世間ほど冷たいものはない
長州藩は長州人によって立て直すしかない…晋作は帰国を決意した。

対馬藩は長州と組んで韓国向け密貿易で財政を回している藩です。長州とは切っても切れない関係ですが、その藩ですら・・・長州の前途には悲観的でした。共闘どころか、長州人と会うことすら憚るといった態度に、晋作は一藩独立を決意します。誰にも頼らず長州を日本から独立させるという方針、後に「自立割拠論」と呼ばれるものです。そのためには、帰国してクーデターを起こすしかありません。その足掛かりは自らが創設した奇兵隊など、民衆を組織した諸隊しかありません。

……と、ここまで書いて、どうやら先走りが過ぎたようだと気が付きました。この辺りの筋書きは、どうやら今週ではなく来週の筋書きのようですねぇ。

余ったスペースに、幕府が諸外国からいかに舐められていたかについて書いておきます。

外国と問題が起こった際の賠償金ですが、年々増額されています。

お金の価値が分からなかった・・・では済まされません。幕府の弱腰というのか、無責任というのか、「金は無尽蔵にある」と思っていたような増額振りで、交渉力のなさというか、軍事的圧力に追い込まれていっているというか、列強の傲慢さに腹が立ってきます。

ヒュースケン暗殺事件では1万ドル

生麦事件が10万ポンド

下関砲撃事件が1万ドル

薩英戦争では10万ドル

4か国連合艦隊との下関戦争では300万ドル

とんでもないほどの高額な要求ですが、これを幕府はすべて請けてしまいます。ちなみに下関での300万ドルは年賦にしてありましたから、幕府は150万ドル払ったところで潰れ、残債は明治新政府が150万ドル支払っています。

軍事力はなくともお金で何とかなる…というご意見の方もいるようですが、お金と言うものはいくらでもエスカレートします。国連にいくらお金を拠出しても、世界は尊敬してくれませんねぇ。国連には全然お金を払わず、自国の軍備だけは世界一の支出をして「常任理事国だ」とでかい顔をしている国もあります。

歴史の読み方は人によって様々ですが、「甘い顔をしていると舐められる」「舐められると要求は際限なくエスカレートする」というのはいつの時代でも同じです。国際外交だけではなく、国内の商取引だって同じことです。

新国立競技場の建設費・・・予算の裏付けもないままに決めたヤクニンの無責任さ。委員会とか、スポーツ団体とかのいい加減さ、江戸幕府の頃のヤクニンと変わりませんねぇ。責任者の無責任会見というのもお笑い種でした。