次郎坊伝 31 御曹司隠蔽

文聞亭笑一

井伊谷の危機が現実味を帯びてきました。

ドラマでは今川氏真の代官・関口氏経が井伊谷まで出張して徳政令にサインした設定になっていますが、関口のような氏真の側近がわざわざ国境近くまで出張してきたかは疑問です。私の手元資料では、これより先に井伊家に出兵命令があり、小野但馬が兵を率いて駿府に出かけたという記録もあります。

関口がサインした徳政令の書類を小野但馬が持ち帰り、直虎にサインを迫ったとすることの方が自然に思えますが、それでは作者の「友情物語」にはそぐいませんね。

いずれにせよ、徳政令が発行された日付は永禄11年11月9日です。12月末には信玄、家康が呼応して東西から駿河に攻め込みますから、徳政令の有効期限は結果的に僅か40日間です。

この40日間、井伊谷の関係者にとっては流氷に乗って彷徨(さまよ)う難民のようなものだったと思います。

徳政令に関口氏経が署名をしているということは、関口が井伊谷の責任者であることを示します。

かと言って、関口が直接乗りこんできたわけではありません。今川政権の官房長官のような役回りですから、自ら徳川との前線には出てきません。代官として指名されたのは小野但馬です。しかも、小野但馬は既に井伊家の軍司令官として300人の兵を揃え、駿府に出張していますから軍事司令権を有します。

直虎はじめ、井伊家の親類衆が抵抗しようとしても組織がありませんし、自分の配下の者たちも小野但馬に握られています。そうなれば…自分の領地に引き上げて、良く言えば謹慎、ホンネとしてはサボタージュするしかないでしょうね。

井伊谷の屋敷(政庁・市役所)は小野但馬に明け渡すことになります。

直虎にとっての選択肢は、出家して龍潭寺に逃げ込むしかありません。出家から還俗して、また出家です。政治権力の山門不介入の原則は生きていますから、出家して寺に逃げ込んだ者には今川も、小野但馬も手出しできません。直虎は次郎法師に戻り、政治の世界から引退した扱いになります。

虎松隠ぺい

次郎法師の身の危険は回避できましたが、問題は虎松です。井伊家正統の唯一の男子です。

しかも、虎松の後見人として次郎・直虎の立場が認められていたわけですから、名目上は井伊家の当主は虎松です。今川としても、これを捨ておくわけにはいきません。

先ずは、人質として駿府に拉致することが考えられます。

それに井伊の親戚衆が抵抗するようなら、処刑、暗殺してしまうことも考えられます。

いずれにせよ虎松こそが井伊家の最後のよりどころです。掌中の珠です。

「逃がす」しか方法はありません。父の直親に続き親子二代続く逃避行です。逃避する先は三河山中の鳳来寺山でした。かつて直親が避難したのは信州飯田の松岡城でしたが、この頃は既に武田信玄の勢力下にあります。井伊と武田では全く政治交流がありません。

現在の鳳来寺山周辺は紅葉の名所として知られます。愛知県新城市の山奥です。この地を治めていたのは菅沼定盈です。徳川家康の支配下に属しますが、その分家は井伊谷三人衆の一人・菅沼定久です。

菅沼定久の立場は微妙ですね。本家は既に家康軍団に属していますし、自分が所属する井伊家は小野但馬に乗っ取られ、滅亡の危機です。今更沈みかけた今川に忠義を尽くすこともありませんが、自分の部下たちは小野但馬の軍に派遣してしまっています。

三人衆の立場は皆同じで、鈴木重時にしても、近藤康用にしても、股裂き状態です。

こういう状況というのは現代でも良く目にします。政界再編という政治劇で、党内の実力者がスキャンダルなどで失脚すると、陣笠議員の皆さんは右顧左眄(うこさべん)します。党という支援がないと独力では「議員」という地位を保持できませんから、実力者を求めて…勝ちそうな方に就かなくてはなりません。今川党は明らかに衰退傾向にありますが、かと言って除名処分などを受けて取潰されてはたまりません。家名の信用に傷が付きます。今まで派閥の領袖として頼ってきた井伊直虎が失脚し、除名処分を受けましたが、それに連座するわけにはいきません。だからと言って、反対党の徳川にすり寄るという決断も難しい。

鈴木、近藤、菅沼の地侍たちは、現代の民主党・陣笠議員と同じ立場だったと思います。八方美人の演技を続け、かつ、勝馬を見極める・・・なかなかに難しい立場ですね。

戦国時代の軍隊

戦国物語には軍隊と軍隊の戦闘場面がつきものです。殺るか、殺られるか…命のやり取りですが、本気でやっていたのは2割程度で、残る8割は状況次第で逃げます。さらに8割のうち2割は戦う気がありません。明治以降の軍隊とは全く違います。

動員令は米の収穫量に応じて村々に割り当てられます。井伊家の場合は300人でしたよね。

地方豪族には専業軍人は殆どいません。いたとしても現在の守衛さん、SP程度です。

事務官僚と雑用係がいます。これも経済規模に応じて少数です。

動員令がかかると村々(現在の地区、町会)の世話役に徴兵令を出します。

村長(後の名主、庄屋)は次男坊、三男坊などを中心に派遣兵士を決めます。当然ですが、割り当てられた本人たちは二種類に分かれます。嫌々参加する7割と、一獲千金を狙う3割。

これで人数に達しないと流れ者を雇います。軍人の派遣会社みたいな組織があって、今回の物語では、龍雲丸の一党がそれですが、有名なのは秀吉が雇った蜂須賀小六の一党です。川筋の水運を使った運輸会社なのですが、戦となれば傭兵として活躍します。こういう集団は全国至る所に存在しました。

要するに寄せ集めです。組織だった訓練などしてはいません。

武器ですが、最大の武器は馬です。これは現代の戦車に相当します。歩兵部隊数十人に騎馬武者が一頭で突撃しても蹴散らしてしまいます。槍や刀では猛スピードで駆けてくる騎馬には対抗できません。逃げるのが精一杯で、前に立ちはだかって応戦するなどと云うケースは稀です。

次は弓矢ですね。殺傷能力はさほどありませんが、騎馬の進撃は防げます。

次郎坊の時期から鉄砲が普及してきました。これは殺傷力があります。徐々に主力武器になってきます。ただ、一発撃ったら弾込めに時間がかかるのが難点でした。

槍、刀は白兵戦になった場合だけ有効です。鎧兜に身を固めていますから斬る、刺すというよりは殴り合いの道具でしたね。殴って、弱った所を斬ったり、刺したりしました。

ともかく、「2:6:2の法則」が当てはまる軍隊です。戦意がある2割、やりたくない2割、そして…形勢次第で攻撃的にもなり、逃げだしもする6割の主流派・・・の混成部隊です。こういう軍隊を強力な戦闘集団にした武田信玄、上杉謙信の両雄は戦意ある2割を徹底的に鍛えましたね。勝ちそうな雰囲気を作れば、6割の主力(日和見)は突撃してきます。

専門軍人を組織した織田信長は、こういう旧式軍隊と全く違う発想で軍事革命を起しました。