万札の顔 第30回 富岡製糸場

文聞亭笑一

ここ数回の物語は、改革についての新政府内部の確執が主要テーマです。

特に、大久保を代表とする薩摩と、実務を進めていく井上、伊藤の長州派や、大隈、江藤と言った肥前派がぶつかります。

薩摩の弱みは、五代才助が政府に参加しないため海外事情に明るい者がいないことです。

薩摩派の重鎮である大久保にとって「国際公法では…」「欧米先進国では…」と主張されると、反論できません。

岩倉具視にしても同じことで、東京に出てきて、京都でのやり方が通用しないことにイライラが募っていました。

金欠政府

廃藩置県が思いのほか順調に進んで、中央集権国家「日本国」が誕生しました。

明治と言う年号は明治天皇が即位した時から始まりますが、明治維新の完成は明治元年ではなく、廃藩置県が行われた明治4年です。

このあたり・・・教科書はどうなっていますかね。我々が学校で歴史を学んでいた昭和のころは「明治維新は明治元年になされた」と教えられました。

岩倉や大久保にとって、海外留学をしてきた井上馨や伊藤博文、それにフランスで学んできた栄一たち旧幕臣は目の上のたん瘤です。

「外交」「安全保障(国土防衛)」という国家としての重要課題に対して具体策が立てられません。

陸軍の山県有朋や、海軍の西郷従道の要求してくる予算が適切かどうか分かりません。

戦、軍事と言えば国内戦争ばかりで異国との戦いの経験がないのです。日本史の中で異国との戦いと言えば3回しかありません。

一つは古代、天智天皇の時代に朝鮮の百済を支援して白村江で戦いました。

大宰府に防人たちを集め、水城など防衛線を張って唐と新羅の侵略に備えました。

二度目は鎌倉時代の元寇です。

火薬や集団戦闘などの軍事技術で優る元軍に歯が立たず、完敗でしたが、いわゆる「神風」台風の暴風雨に救われた戦でした。

3度目は秀吉による「唐入り」朝鮮征伐です。

・・・それから300年、明治日本の防衛は、どこが仮想敵国かもわからない状況でスタートしています。

「軍艦は多い方が良い」「兵隊は多い方が良い」小学生でもわかる理屈で予算要求してきますから、大蔵省からすれば「バカ言ってんじゃねぇ」となり、前回の放送の、栄一と大久保の睨み合いになります。

あの睨みあいは、大久保の負けですね。「入る金がないのに、出す金はない」当たり前の理屈です。

岩倉使節団

百聞は一見に如かず・・・と云う通り、岩倉具視を団長に欧米視察団が出発します。

海外出張の名目、タテマエは条約改正交渉・・・とりわけ治外法権の撤廃を求める交渉なのですが、最初の訪問先アメリカであっさりと拒否され、その後はやる気を失います。

大久保も桂も、「幕府の弱腰」を叫んで攘夷運動をしてきた連中なのですが、交渉に当たっては彼らの方が弱腰と言うか、腰が引けていました。幕府の失策にして責任回避します。

かつての民主党政権、現在の野党各位も同じ傾向で、他人のすることには口汚く罵りますが、いざ自分がやってみると、壁の厚さ、高さに滅入ってしまいます。

結局、岩倉達使節団は「欧米文化の修学旅行」として外遊を続けることになります。

新生日本を支える中核の政府首脳がまとまって訪問しますから、外交という点では大いに成果があったと思われます。

大久保利通や木戸孝允の胸の奥に淀んでいた「攘夷」の感情は洗い流されて、外交問題に正しく対応できるようになったと思われます。

富岡製糸場

義兄の尾高淳忠が責任者として建設を進めている西洋式機械化製糸工場は苦労続きでした。

まずは建設資材としてのレンガがありません。レンガを接着するセメントもありません。

レンガは富岡近郊で良質の粘土を見つけ、フランス人の指導を得乍ら試行錯誤で使えるレベルのものに焼き揚げました。

セメントは簡単には作れません。漆喰を工夫して粘度を強化し、代用することにしました。

建物や機械などのハードは、遅れ遅れながらも着実に整っていきます。

当時の資料には

「十数丈なる蟒蛇(うわばみ)の如き煙突より、黒もうもうたる煤煙上がり、重量幾満貫と言う機械。疾風の如く動く。・・・略

・・・珍しいというより、すざまじ。人間技と思われず、切支丹の魔法にあらずや」

設備は整っていくのですが、肝心の女工が集まりません。

これは指導に来ているフランス人たちが赤ワインを飲むのを見て

「異人たちは夜な夜な生き血を飲む。

あそこに行くと夜毎に生き血を吸われて殺される」

と言う噂がまことしやかに流され、女工どころか建設現場の職人まで逃げだすありさまでした。

純忠や、出獄して製糸場建設に参加した喜作たちが、自らワインを飲んで見せても、なかなか払しょくできません。

現代人はブドウと言えば巨峰やシャインマスカットなどをスンナリ理解しますが、この時代にブドウは入ってきていません。

山ブドウ程度しか知りませんし、その山ブドウからできる猿酒などは貴重品も貴重品で、木こり以外は見たことも飲んだこともありません。

ついには強制連行と言うか・・・、戊辰戦争の賊軍であった米沢、会津、仙台の各地から政府の命令として100人の女工を集めました。これでどうにか操業を開始します。

純忠の献身的努力で、女工たちとフランス人指導者とも馴染み、順調に生産が進みます。

そうなると・・・日和見をしていた者たちが次々と訪れ、3か月後には定員の400人の女工が集まり、フル生産に入ります。

富岡の生糸は、最新鋭の機械と、日本人らしい繊細な気働きが相まってフランスのリヨンや、イタリアのミラノで「世界最高品質」の評判が立ちます。

生糸が日本の最大の輸出商品として、その地位を確立していきました。

生糸、製糸の材料となる養蚕…まさに労働集約型産業の典型です。

蚕とは 蚕蛾の幼虫です。

一般的な昆虫と同じで卵で繁殖し、卵から孵ると幼虫(ウジ虫)になり、そして繭(まゆ)を作って蛹になります。

この「繭」が生糸の原料です。繭を煮て、糸の先を見つけて、数本をより合わせてできた糸が生糸ですね。

従来はこれを手作業でやっていましたから、どうしても均質な太さにはなりませんでした。

養蚕農家は年間に3回から4回繭を生産します。

春蚕、夏蚕、秋蚕そして晩秋蚕、晩晩秋蚕まで5回やることもあります。

最盛期の養蚕農家は、家中が蚕だらけで寝るところもありません。