どうなる家康 第23回 戦争・粛正・人殺し

作 文聞亭笑一

思ったほど残酷な表現ではありませんでしたが、凄惨な場面を映像として流しました。

こういう場面を子どもたちに見せることの是非については意見が分かれるところです。

戦争の悲惨さを目に焼き付けて、「戦争をしてはいけない」と強烈な刷り込みをする・・・と言う、意見があります。ワクチン、免疫論です。

一方で子どもたちの心に傷をつける、場合によっては後遺症となるから「見せるべきではない」と言う意見もあります。

ワクチン反対派の意見です。

どちらも尤もな意見ですが、子供が見る時間帯に流す映像としては刺激が強いかなと・・・思いつつも、最近のゲームソフトの映像に比べたらマシか・・・と思ったりもします。

「誰でも良いから人を殺してみたかった」という、驚くべき動機での殺人事件が多発しています。

そしてその犯人は高校生や20歳代の若者です。

撃つ、討つ、殺す・・・そういうゲームに没入していたら「夢と現(うつつ)」が混同してしまうのでしょうか。

ゲームの規制はできませんが、「して良いことと、ダメなこと」これはしっかりと教えていかなくてはいけませんね。

「どんな理由があっても、人を殺してはいけない」

これは絶対基準として指導していくべき事です。

その意味で大量殺人犯・プーチンは大悪党です。

そして、信長・・・異常性格者ですね。

それを演じる岡田准一の演技が見事です。

見事ではありますが、日本史上の英雄として褒めたたえる対象であるかどうか・・・意見が分かれます。

弱点を知るゆえに

この当時の火縄銃は連射ができません。

一発撃つと、筒に残った火薬の煤を掃除して、弾込めをします。

これを念入りにやらないと射程距離、弾丸の威力が落ちてしまいます。

火薬の質にもよりますがこの作業には数分かかります。

さらに、発射時の反動が大きいため、訓練を積んだ兵でないと、狙った目標に向けて発射できません。

この欠点を知っている信長は大量の鉄砲を準備しました。

さらに、根来衆などの熟練の狙撃兵を数百人の規模で連れてきていました。

千丁の鉄砲を取り替え、引替え撃つのは、彼ら狙撃のプロです。

織田軍の鉄砲足軽は筒掃除、弾込めが仕事で、自分が撃つのはなく、発射用意のできた鉄砲を狙撃兵に渡します。

一人の熟練狙撃兵に鉄砲が3丁から5丁・・・これを代わる代わる発射します。

短時間で、命中率の高い銃撃ができます。

一種の流れ作業です。

一方の勝頼、武田軍も鉄砲の弱点を知っていました。

連続射撃ができない・・・ ということは、一斉射撃の後には数分の時間が空きます。

この時間に距離を詰めて白兵戦に持ち込む、敵味方が入り乱れてしまえば鉄砲は使えません。

それを狙って突撃を繰り返しました。

武田方の誤算は、鉄砲の数が想像を絶するほど多かったことと、信長の作った「流れ作業」のフォーメーションで間断なく、正確な鉄砲玉が飛んできたことです。

この当時の鉄砲はハードウエアも高価ですが、火薬というソフトウエアも高価でした。

硝石は輸入に頼りますから火薬を手に入れるには海外貿易が必要です。

信長が上洛後すぐに貿易都市・堺を手に入れたのはそのためでした。

もう一つのウエアであるヒューマンウエア、使いこなしの技術ですが、高価な鉄砲、高価な火薬が必要ですから、千人の規模の射撃訓練などはできません。

射撃技術は簡単に上達しません。

武器は、ハードだけ揃えたら使えるものではありませんね。

ウクライナに欧米の最新兵器が供与されますが、訓練できていません。

反転攻勢に使い切れるでしょうか?

ロシア兵もワグネルに雇われた囚人達は訓練なしに前線に送り込まれ、死体の山を築いているようです。

我々年寄りはスマホすら使い切れずにオロオロしていますが、鉄砲足軽達が本格的訓練を受けていくのは長篠以降なのかもしれません。

ともかく、道具を使うにはハード、ソフト、ヒューマンの3要素が必要ですね。

信元粛正

独裁者が決まってやることに「身内の粛清」があります。

スターリンほどでないにせよ、プーチンや金正恩もやっていますね。

反対派、敵対勢力を戦争という形で殲滅するのはまだしも、味方を粛正するというのはいただけません。

恐怖政治に向かいます。

水野信元が粛正の槍玉に挙げられます。

罪状は「武田方が籠城する岩村城に兵糧を送った」という利敵行為です。

この当時、設楽が原の合戦で大敗したとは言え、武田方の前線基地は健在でした。

遠州では高天神城、小山城で争奪戦が行われていますし、美濃には岩村城があります。

何回か前の「麒麟が来る」のとき岩村城を訪ねてみましたが、聞きしに勝る要害でした。

「力攻めでは落とせまい」「兵糧攻めしかないな」

・・・仲間達と納得しあったものです。

岩村城には武田の勇将・秋山信友がいます。

そして信友の妻となった信長の叔母・おつやの方がいます。

守りが堅固で一向に落ちる気配がありません。

信長の度重なる催促に攻め手の大将である佐久間信盛は「水野兵が敵方に米を入れた」と言訳します。

証拠もない・・・讒言です。

佐久間信盛という男・・・「誰かのせいにして逃げる」事を得意としていたらしく、この後は本願寺攻めの時も「荒木村重の兵が本願寺に兵糧を入れた」と言訳し、攻略の遅れを言訳します。

こういう男が味方にいると仕事になりませんが、それが信長の筆頭家老であったというところも、信長政権の脆弱さでした。

ともかく、証拠調べもせずに死刑判決を下してしまうのが独裁者・信長の悪い癖です。

一方、水野信元の方にも、信長に睨まれる要素、態度がありました。

水野家は佐久間や柴田のような織田家の家臣ではなく、徳川などと同様な協力大名であると言う立場を取っています。

事実、信長の父・信秀の時代からそうでした。

西三河から知多半島一帯は水野家の領地で、24万石の実入りがあったと言われます。

さらに、家康の母・於大の方は信元の妹です。

家康を織田方に引き入れたのは水野の功績・・・と言う自負もありました。

これが、信長やその家臣団、とりわけ領地を接する佐久間信盛には面白くなかったのではないでしょうか。

「隙あらば足を引っ張ろう」と狙われていたところに・・・一部の部下の行動が引っかかりましたね。

気の毒でした。

文聞亭が水野の肩を持つのは、水野家は後に復活して松本城の城主になります。

そして、その菩提寺は吾が故郷の村の玄向寺、その住職は私の小中学校時代の同級生・・・と言う縁からです。