水の如く 27 青天の霹靂

文聞亭笑一

いよいよ・・・ドラマの中では本能寺の変が起きるようです。この事件ほどミステリアスな題材はないようで、多くの歴史家や、小説家がこぞってテーマにします。定説と呼ばれるものがないほどに四方八方から切り刻んで、信長、秀吉、家康、そして光秀と夫々の立場から新説が出てきます。どれも本当らしく、しかもどの説にも確たる物証がありません。

とはいえ、犯罪捜査の定石である「最も得をするのは誰か」という観点からの分析が説得力を持ちますね。結果論から言えば、最も得をしたのは秀吉ですが、秀吉を信長殺害の黒幕にするには無理があります。家康も命からがら浜松に逃げ帰っていますから除外されそうです。そうなると…やはり、黒幕は朝廷に巣食う公家衆でしょうね。政治工作、陰謀と言う点では戦国大名など足元にも及ばぬ能力と伝統を持っています。

彼らが信長を排除したい理由は「朝廷の危機」という、切羽詰まった課題があります。信長は京の都を廃止し、安土遷都を朝廷に強要していました。それに反対する正親町天皇に退位を要求し、信長が懐柔した皇太子に譲位することを強く求めていました。それもあって、安土城内には仮御所がすでに出来上がっていました。昭和の前半に天皇機関説という理屈が発表されますが、信長の構想はそれに近かったのではないかと思われます。信長という帝王を政治の中心とし、天皇は神主の元締め、古典的伝統の継承者として帝王を支える役目にしようという考えです。実際に、徳川幕府ではその通りの運営にしていました。信長の構想は家康によって実現されました。

公家が狙いを付けたのは伝統文化を重んじる文化人、明智光秀と細川幽斎です。どちらも勤皇の志が篤く、日本の伝統文化に造詣が深い保守派です。公家衆が光秀に目を付けるのは当然で、陰に陽に「帝のご意向」を伝えていたのは間違いない所でしょう。証拠にはなりませんが、光秀は本能寺の変の直後に安土を攻め、この時代の文化の粋ともいうべき安土城を焼き、破壊しています。戦略、戦術的には愚の愚ですが、信長の権威を取り除こうという公家衆の「指示」で、やらざるを得なかったのだと思います。

明智光秀の、この主体性のなさが、山崎の合戦での脆さに出たのだと思いますね。光秀ほどの軍略家が、およそ戦略も政略もなく10日間を過ごしています。

105、秀吉の顔というのは、陣頭で衆を指揮している時は黒鉄のように固く冷たく 、打てば火花の匂いを感じさせるような肌質を示す。ふりかえって人の意見を聞くときは、全体が穴のようになる。その穴に吸い寄せられるようにして、人は自分の考えを言ってしまうし、であればこそ官兵衛のように物の思案の盛んな男にすれば、秀吉において稀有な仕事仲間を見出した感じがするのである。

秀吉軍3万、毛利軍3万が高松城の下流域で睨みあいます。どちらも、決戦をしたくありません。秀吉からすれば、合戦の最中に高松城の5千の兵力が横から攻撃してくるのが嫌ですし、味方の宇喜多が寝返る恐れもあります。

一方の毛利軍も、ここで秀吉に勝ったとしても、10万の織田本軍が出てきたら戦うしかなくなります。戦って、勝てる可能性は実に低い…ということは容易に計算できます。そして、和平交渉のきっかけを失います。何としてでも毛利家の存続を…という思いが、小早川隆景、吉川元春には強いのです。

陣を敷いたままでのにらみ合いです。同数同士で対戦した場合、どうしても先に動いた方が負けます。先手必勝といわれますが、それは陣地を獲る前のことで、がっぷり四つに組んでしまってからでは先手必敗です。

官兵衛は、ひたすら足守川のせき止め工事に注力します。高松城を水の中に孤立させてしまえば、横から攻められる脅威は取り除けます。

106、船という船に錨をおろさせた。船を川の流れに対し横に位置付けるために、両岸から綱を引っ張って固定した。かつ船同士を縛り合わせた。どの船にも船底に切り石を敷き並べ、積み上げた。ちょうど石垣の基部が船に乗っかっているようであった。その上で、船底の穴の栓を抜いた。どの船もまっすぐに川底に向かって沈んだ。

大きな川を堰き止めるというのは至難の業です。足守川は大河というほどではありませんが急流で、かつ水量も多いですから、土俵をいくら放り込んでも流されてしまいます。高松城を囲むダムはできたのですが、足守川の取水口では賽の河原の石積みのような状態が続き、一向に水が溜まりません。

<船を沈める>というアイディアを思いついたのは、官兵衛の乳兄弟の吉田六郎大夫でした。海から船を引いてきて、その船に石材、土俵などを満載し、一斉に鎮めてしまうという方法です。川幅いっぱいに6艘を五段に並べ30隻を一斉に沈めます。これがまんまと成功しました。

余談ですが、水攻めという作戦は、この、備中高松城だけではなく小田原の北条攻めの時も実行されています。この時は石田三成が総大将で武州忍城を攻めましたが、こちらは見事に失敗しています。映画「のぼうの城」で描かれましたね。しかし、それは後の事で、高松城では三成の経済官僚としての能力がいかんなく発揮され、土を金で買うという金権的戦術がものの見事に成功し、短期間でのダム工事ができたと言えます。

さらに、宇喜多家にいた堺の商人出身の小西行長が三成に協力して、秀吉の経済面を支えます。経済力でも優位に立たないと、戦争には勝てません。その点で、近江商人の知恵を持つ浅井家の旧臣を傘下に抱えた秀吉は人材に恵まれていました。

107、秀吉はその生涯から見ても、稀有なほどに運のついた男であったと言っていい。
堰堤ができてほどなく、山陽道に大雨が降った。それも地面を掘るほどに激しい雨だった。しかも数日続いた。これがために、たちまち人工湖ができ、高松城は水面に浮かんだ。官兵衛は<この男は天下をも獲るのではないか>とも思った。

この戦は水が勝負を分けます。水の量で戦場での時間が決まります。ダムが満水になり、高松城が水没して5千人の兵士が溺死する…これが毛利家に無言の圧力を加えていきます。

決戦を主張する吉川元春、元長親子と和平の方策を探る小早川隆景…内部分裂を起さず,評定を続けさせたのは元就の遺訓でした。「決して天下を狙ってはならぬ」という遺訓の前に、吉川親子の決戦論が封じられ、安国寺恵瓊が軍使となって両陣営を頻繁に往復します。

小早川隆景が求めたのは5か国割譲和平案です。現在係争中の備中は勿論、小早川の本拠地備後、それに美作、因幡、伯耆の5か国を織田に明け渡す代わりに安芸、周防、長門、石見、出雲の5か国を本領安堵、つまり、毛利の領地として認めよと言うもので、これは秀吉の一存で決められることではありません。信長の決裁が必要です。秀吉が信長から受けた指示は「中国はすべて織田直轄領にせよ」と言うもので、宇喜多家の領地すら、信長は認めていないのです。

…が、秀吉も官兵衛もこの魅力的提案に理解を示します。信長に仲介するにあたって、条件を付けます。それは秀吉が毛利に勝ったという証拠で、清水宗治の首を差し出せと言うものでした。それがないと…「毛利を殲滅せよ」という信長に会わせる顔がないのです。

信義を重んずる毛利としては、受け入れがたい条件ですが、これを独断専行して高松城に赴き清水宗治を説得してしまうのが安国寺恵瓊です。秀吉の独断と安国寺の独断・・・これで和平への道が開けます。

108、日本の合戦というのは純粋に軍事的なものであるのかどうか。純粋に軍事的とは、双方の将が軍事のみの知力を傾け、士卒は味方の裏切りを心配することなく、ひたすら戦闘に従事できる状態を言う。が、日本では軍事の中に政治感覚が付きまとう。

本能寺の変報が届く前日の駆け引きというのは両陣営にあって長い、長い時間でした。

「日本の一番長い日」という映画がありましたが、それにも匹敵する長さだったでしょう。秀吉や官兵衛の胸のうち、小早川・吉川兄弟、それに毛利輝元の胸中、さらには恵瓊と宗治…たくさんの人たちが、たくさんの想定仮説の中から、どの選択肢を選ぶか……苦悩を重ねていました。備中高松のダム湖を挟んで、双方がぎりぎりの交渉をしていたのです。

引用した部分は司馬遼の歴史観の一部ですが、純粋に軍事的な戦闘というのがあるかどうか? 戦争も戦闘も政治の一部です。純粋な軍人という人種が現れて、満州事変などを起し、大戦を引き起こしていった昭和の歴史を想うと、純粋にやって良いのはスポーツの世界だけかと思います。

ともかく、本能寺を明智光秀軍が囲んだ夜、安国寺恵瓊の周旋によって宗治自決、城兵退去、両軍退去の契約が交わされました。歴史は、まさに、あざなえる縄の如しですねぇ。

同日、同時刻に、京都では信長が倒れ、備中では和平条約が締結されていたのです。