乱に咲く花 31 たった一人のクーデター

文聞亭笑一

先週、先々週に書いてしまった歴史の一コマを、今週も延々とやってくれるのがNHKドラマで、それはそれなりに興味がありますが、追いかけ作者としてはネタ切れです(笑)

さて…先走るわけにもいかず、かと言って…勝手に休憩するのも腹立たしいので、あれこれと維新物をひっくり返しますが、皆さんにお伝えして面白いネタはありませんねぇ。

そこでまた…この頃の幕府内部の動静を整理してみます。

将軍・家茂は江戸城に居ます。

「嫌じゃ、嫌じゃ。将軍と結婚するくらいなら髪を下して尼寺に入る」とごねていた和宮さんでしたが、家茂に会ってみると…許嫁だった有栖川の宮さんより男らしく凛々しいのにすっかり惚れて…琴瑟(きんしつ)相和(あいわ)す…というほどに新婚生活を満喫しています。

家茂の方も、「どうせ権高くていやな女だろう」と思っていた和宮が、実は大奥のどの女たちよりも女らしく、更に教養も溢れる理想の伴侶と知って夫婦生活に熱中してしまいたいところです。政治向きのことは「慶喜、よきに計らえ」と投げ出してしまいたいのですが、慶喜嫌いの大奥の姑、小姑が慶喜の悪口ばかり言いますし、江戸詰の老中たちも「慶喜は将軍位を狙っている」などと余計なことを耳に入れますので、大奥に入り浸っているわけにもいきません。

18歳の将軍と17歳の奥方・・・激動の政治を差配するには荷が重すぎます。

その上、江戸の老中は慶喜を信用せず、慶喜は老中を無視していますから、幕府という組織はバラバラですよね。四賢公といわれる越前の春嶽、土佐の容堂、宇和島の宗城、薩摩の久光・・・それぞれが、それぞれで動きますから全体を考える人がいません。敢えていたとすれば…会津の松平容保くらいなものだったでしょうか。

この状態を見た諸外国が、内政干渉を強めてきます。

イギリスは「幕府よりも薩摩など雄藩と組む」と方針を決め、幕府には事あるごとに賠償金を吹っかけては金をむしり取ることに熱中します。一種の暴力団というか、ゆすり、たかりを繰り返し、横浜では貿易面で暴利をむさぼります。まさに海賊行為そのものです。

フランスは、幕府の弱みに付け込んで大型借款やインフラ投資への協力、軍事支援など甘い汁をちらつかせ、融資のかたに北海道の割譲を狙います。これにまんまと引っ掛ったのが幕府の勘定奉行・小栗上野介で、契約書を結ぶ寸前まで話を進めてしまっていました。

オリンピックドームの建設問題でもそうですが、お金の値打ちが分からなくなるのがヤクニンの困った習性です。2300億円を捻出するのに一本50円のキューリを何本出荷すればよいのか…、米を何万石生産すればよいのか…、ちょっと計算してみればその額の大きさに腰を抜かしますが、そういう実体験のない人にはわからない計算でしょうね。

ついでに・・・禁煙を叫ぶのも結構ですが、禁煙法を制定してタバコ税がゼロになった時のことも考えてみたらいかがでしょうか。川崎市の場合で一人・年間1万円の増税が必要になります。

「たばこの害が無くなれば医療費がそれ以上に浮く」ですか。申し訳ありませんが、タバコを吸っている人は医者に掛からない人が多いのです。健康だから吸っているのです。入院したら一本も吸わせてもらえませんからね(笑)こういう馬鹿な政策を推進したのが、かつての民主党政権で、ガソリン税ゼロと華々しくぶち上げて、早々に頓挫しました。収入の当てもないのに支出の計算をして世を欺くのはペテン師のすることです。

おや、脱線が過ぎました。

望東尼は勘で晋作が帰国することを覚ったらしい。短冊に歌を記して晋作に送った。
「谷梅ぬしの故郷に帰りたまひけるに、形見として夜もすがら旅衣縫いて贈りける
まごころを つくしのきぬは国のため たちかえるべきころもてにせよ」

晋作が逃亡した先は博多の郊外です。ここに攘夷詩人の望東尼さんという方の庵があり、そこを隠れ家にしていました。歌会、門人と称して月形銑蔵などの志士たちが出入りします。晋作は全国指名手配犯人ですから博多の街を歩き回るわけにはいきません。月形など、九州の攘夷派の情報で動くしかない状況でした。

「このままでは長州の攘夷活動は根絶やしになる」

晋作の代わりに下関に渡り、現地を偵察していた銑蔵やその配下から悲観的な情報が入ります。いてもたってもいられません。晋作は危険を冒して帰国を決心します。

引用した部分「谷梅」とは晋作の変名・谷 梅太郎です。

真心を尽くし衣…と筑紫をかけ、筑紫を退く  衣、頃…など 手の込んだ歌ですね

歴史の力関係が、ある条件に達する時、一個の梃子で時勢を旋回させることができるであろう。「その梃子が奇兵隊だ」と、晋作は下関で想っている。奇兵隊以下諸隊の軍事力をもってクーデターを起し、俗論党政府を倒すことであった。

奇兵隊を作ったのは高杉晋作です。しかし、作った後それを放り出して藩政に携わり、四か国艦隊との講和では和睦の使節を務めます。奇兵隊にとってはこの講和が攘夷に対する裏切り行為だと晋作を敵視する意見が主流を占め、晋作に協力する雰囲気は全くありません。

だから、下関に帰っても協力者は一人もいない状況でした。あえていえば商人の白石正二郎だけです。この人は晋作にトコトンほれ込み、身上を傾けてまで支援しました。維新後、白石の店は潰れてしまっていますから、いわゆる政商ではなかったようですね。

嫌われているとわかっていても、晋作が頼るのは奇兵隊を中核とする諸隊の軍事力しかありません。奇兵隊には多くの松下村塾の門下生も顔をそろえているのですが、彼らは高杉晋作を裏切り者と見ていますから、協力者というより…暗殺者たちです。

が、この頃、奇兵隊で実権を握っていたのは山県狂介(有朋)です。どちらかといえば慎重居士の山県を味方に着ければ、奇兵隊を動かすことができるかもしれません。山県という男は主義主張といった政治思想の持ち合わせはなく、親分肌というか、内部統制に長けた人物であったようで、会社でいえば総務部長タイプだったようですね。

奇兵隊総督である赤根武人は藩内を飛び歩いて、特に萩の俗論党幹部たちと接触し、「藩を守るには、たとえ一時的でも佐幕政府を作る以外になく、奇兵隊以下諸隊もそれに協力すべきである」という方針を持つに至り、長府に帰ってきて部下である奇兵隊軍監・山県狂介に説いた。

奇兵隊の総督は赤根武人です。松陰門下生で、松陰の生存中から京で活躍します。池田屋事件などでも危ない所を逃げ出していますし、蛤御門の変でも生き延びています。生命力が強いというか、運が良いというか、危機察知能力に優れるというか…

現代の野党政治家の誰かさんに似たタイプでしょうね。「攘夷・革新」の旗を立てていますが定見はなく、今日は攘夷、明日は佐幕と身の安全と、存在感の強化のためならなんでもするタイプでしょう。政治家というよりは「政治屋」といった方が良い男だったようです。

奇兵隊はこのままでは雲散霧消する、そうすると自分の居場所がなくなる、そうなる前に奇兵隊を長州藩の軍隊として、椋梨藤太以下の主流派に売りつける…という工作を始めます。椋梨にとっても、藩内に反対派を抱えるよりは抱き込んでしまった方が政権として安定しますから、この話に乗り気です。一旦、政権を安定させておいて、それからゆっくり料理すればよいと考えたようです。

山県もその気になります。彼にとっても奇兵隊という組織が大切で、主義・主張などはどうでも良いのです。この二人、時が移ってもその本質は変わりませんでした。

赤根は第二次長州征伐が始まると京に出かけ、新選組の近藤勇に支援を求めたりします。節操がないというか、何を考えて行動していたのかよく分からない政治的怪人でした。

山県は維新後「軍部」として巨大化した組織を守るため、軍部が政権から独立してしまうような統率権なるものを作り上げ、明治から昭和にかけての軍部独裁の基盤を作ることになります。

高杉は下関で大演説をぶった。
「俺は一人でも萩に行き、大殿に直諫(ちょくかん)する。途中で俗論党に殺されるかもしれない。しかし、生死など問わない。今の場合、一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。尊皇の臣士たるもの一日として安閑としている場合ではない」

高杉は、椋梨以下の政権を打倒すべく、下関で「たった一人の反乱」を起します。

「藩政府打倒」「開国、しかる後に攘夷」「討幕」三本の基本政策を掲げ、同志を集います。

奇兵隊は冷ややかでした。トップは藩政府との融和を試みています。中核の松下村塾出身者は高杉を裏切り者と見ています。

唯一、この呼びかけに呼応したのが別府に逃げていた伊藤俊輔(博文)でした。彼の配下である力士隊16名を連れて参加してきます。この時の高杉の演説「一里行けば…、二里行けば…」は戦前の教科書にもなった有名な演説のようですが、決死の覚悟を伝えた言葉です。

この演説を受けて、上層部の対応に不満を持つ奇兵隊士が脱走して加わり、その他諸隊の脱走兵も加わり60人ほどの軍勢になりました。この60人が下関代官所を襲い、維新戦争の幕が切って落とされます。

「60余人」という人数ははっきりしていないのですが、考えてみますと、60人というのは面白い数字で、キューバのカストロさんが革命を起し成功した時に率いていたのが61人なんです。人間というのは60人も集まればある程度のことができるのかなと思わないでもありません。
半藤一利「維新史」

偶然の一致でしょうが・・・ご参考までに引用しておきます。