次郎坊伝 32 駿府炎上

文聞亭笑一

いよいよ、きな臭くなってきました。戦国物語的期待が湧きますが…女性の脚本ですからねぇ。

桶狭間の合戦の扱いと同様に戦闘スペクタルは期待薄です。映画並みにとは言いませんが、昨年の真田丸程度はやってもらわないと「大河」の名が泣きます。戦争反対も結構ですが、歴史の中で繰り返してきたことですから、それなりに描写していただかないと困ります。

信玄の進撃ルート

武田軍団は「風林火山」の旌旗を掲げ、12月6日に甲府を発します。

甲府から駿府への進撃ルートは幾筋かありますが、身延道が最短でしょう。さらに都留郡の部隊は富士五湖のルートから御殿場に抜け、富士川左岸の今川と北条の国境に位置する蒲原城を落とします。

これは、あらかじめ内通していたのではないかと思われる程にあっけない落城でした。

ここを根城に信玄は12月12日、陸路の難関・薩埵峠に攻め登ります。以前にも触れましが、薩埵峠は崖沿いの急坂です。頂上に陣取る今川方と、下から攻め登る武田方では、明らかに高所にいる方が有利です。武田・今川両軍の軍勢の数は、ほぼ同数なのですが、薩埵峠に出陣した部隊、今川軍兵士の数は分かりません。今川氏真は駿府の館を出ていませんから、今川本隊、親衛隊や重臣たちの部隊は駿府に残っていて、小野但馬などのような外様たちが薩埵峠の守りについていたのではないでしょうか。指揮官なき寄せ集め部隊であったと想定されます。

というのは・・・断然有利な条件なのに、あまりにもあっけなく…蹴散らされてしまっています。

信玄が得意の工兵部隊(黒鍬組)を使って、本道とは別ルートから横槍を入れた(側面攻撃を仕掛けた)のかもしれませんが、今川方の崩れるのが早すぎます。たった一日の戦闘で今川勢は崩れ立ち四散してしまいます。

前回も書きましたが、やる気のない軍隊とはそういうもので、敗けそうな方に就いて命まで取られたら堪らぬと逃げ出します。外様たちは今川への義理で出陣してきています。こういう兵たちは敵の姿を見たら矢を射った、鉄砲を放った、敵の先鋒と槍合わせをした、・・・と云うだけで義理が果たせます。命のやり取りなどせず、じわじわと安全地帯に後退します。

このような状態にしないためには、指揮官自らが前線に立ち、突撃などをして見せないといけないのですが、今川勢にそういう勇敢な指揮官はいなかったようですね。大将自らが「ヤバい!」と後退を始めたら、軍勢は一目散に逃げ出します。勇敢に戦って、敗け戦で手柄を立てても何ももらえませんからねぇ、当然と言えば当然です。

薩埵峠から駿府(静岡)までには、今川方の防衛拠点が幾つもあります。

海沿いのルート(久能街道)では久能山城(現在の東照宮)有東砦、八幡山城があります。

東海道の本道には瀬名砦、愛宕山城があります。

北に迂回しても梅ヶ島街道に沿って北砦、賎機山城があります。

こういう軍事施設が所定の機能を発揮すれば、いかに信玄の軍が強力とは言えどもわずか一日で駿府館が落城、炎焼してしまうということはないはずです。しかし…ないはずのことが起きたということは、城も砦も、全く機能しなかったということでしょう。薩埵峠から逃げ帰る敗残兵と一緒になって逃げ出したのだと思われます。その証拠というか…、信玄の軍は駿府館を炎上させた後、これらの城や砦を接収し、自分たちの軍事基地として使っています。場合によっては武器も兵糧も残したまま逃げたとも考えられます。

氏真逃亡

総大将の今川氏真は薩埵峠の敗報を聞くや、一目散に掛川城を目指し逃げ出します。

これも今川方の将兵が逃げた大きな原因の一つでしょう。大将の居ないところで戦ってみても仕方がありません。頑張った所で、見ていてくれる人、評価してくれる人がいなくては無駄な苦労です。そのような骨折り損をする人は、いつの時代だっていませんよ。

氏真が掛川を目指したのは、戦上手と信頼できる武将が掛川城主の朝比奈の他にいなかったからです。氏真の取巻きは関口などの文官ばかりで、戦の役には立たなかったのでしょう。その意味で今川家は平和主義者と言おうか、公家的と言おうか、防衛力が手薄でした。日本国憲法もそうですが、いかに高邁な理想を掲げても無法者の乱入には備えておかないと、いざという時は手の打ちようがありません。平和主義の皆さんには、今川氏真を嗤う資格はありませんね。しかし、その掛川城には、信玄に呼応した家康の軍が迫ります。これはもう少し後の話。

家康の遠州侵略

信玄動く…の報に、家康も数日遅れで(12月10日ころ)岡崎城を発進します。

言ってみれば…火事場泥棒のようなもので、領土分割の密約があろうがなかろうが、遠州で今川が手薄になる事はミエミエです。現に、国境に近い井伊谷の小野但馬ですら、3百の兵を率いて駿府に出動し、薩埵峠の守備についています。井伊谷城は空き家同然なのです。

家康は国境線の情報収集と、地方豪族の調略を野田城の菅沼定盈に命じていました。菅沼一族は三遠国境に棲む一族で、その分家の一つは井伊谷三人衆と呼ばれるうちの一人、菅沼定久です。

菅沼定久にしてみれば、井伊家には恩義がありますが、その後釜に座った小野但馬には、義理も恩義もありません。今川に睨まれて、取潰されるのが怖いから従っているだけです。本家筋から誘いがあって、かつ、旧主の井伊家も家康に内通していると告げられたら、他の三人衆を誘って徳川に寝返りたいところです。・・・が、そうもいかない事情もありました。

家康軍は姫街道を通って、まず目指すは井伊谷です。

井伊谷三人衆の立場

菅沼、近藤、鈴木の井伊谷三人衆の立場は微妙です。今川には将来はない、その代官である小野但馬には義理も恩義もない・・・のですが、駿府出兵に身内や部下を従わせてしまっています。

彼らは小野但馬の配下にありますから、表立って裏切りの話はできません。

小野但馬から「井伊谷城では心もとない。より堅固な三岳城に移る」と言われれば従うしかありませんでした。三岳城で籠城することになります。

一方で家康軍は菅沼定盈の先導で井伊谷に進軍してきます。

ここから、三岳城に籠る三人衆に最後の調略を仕掛けます。

「首魁の小野を捕らえるか、首を取れば三人の本領は安堵する」というもので、その裏には

「さもなくば小野諸共に攻め滅ぼす」という脅しが込められています。最後の決断を迫ります。

三人衆は「やるっきゃない」・・・でしょうね。

かくして三岳城は戦わずして徳川の軍門に下り、小野但馬守政次は家康の前に引き据えられます。民衆の前で磔に処された…と記録にあります。