万札の顔 第32回 夢なかるべからず
文聞亭笑一
大蔵省を飛びだして民業へと転身した栄一ですが、ここからが人生の勝負どころですね。
中央官僚・為政者としての栄一を見る目と、そうでなくなった栄一への風当たりは南風と北風の如くに寒暖と風速を変えてきます。
とりわけ「官」の時代に、栄一が権力の後ろ盾で押さえつけてきた三井組は「ここぞ」と仕返しにかかります。そこらあたりが今回のテーマでしょうか。
・・・ところで、上州に住む友人が「栄一語録」を送ってきてくれました。
北関東では渋沢栄一をテーマにしたセミナ、勉強会が始まったようで、血洗島「中んち」の学芸員が渋沢栄一伝を講演しているようです。
渋沢栄一が子孫に向けて残したという文書を紹介します。
夢七訓 渋沢栄一
夢なき者は理想なし
理想なき者は信念なし
信念なき者は計画なし
計画なき者は実行なし
実行なき者は成果なし
成果なき者は幸福なし
ゆえに幸福を求める者は
夢なかるべからず
三段論法・・・と云うのは一般的ですが七段論法でしょうか。
ついつい釣り込まれてしまいます。
「合本の組織こそ経済の維新だ」と信じる栄一の夢は「合本の企業」が競い合い、互いに力をつけ、蓄えて国力を拡大していく姿を夢見たのだと思います。
一言でいえば「民活」ですが、平成、令和の民活よりはかなり困難さとスケールが違いますね。
維新後の経済人
明治新政府を支えて、その金繰りをしてきたのは三井組と小野組が有名です。
三井の総帥は三井八郎右衛門ですが、実質は大番頭の三野村利左衛門が切り盛りしています。
この男、「丁稚上りで文字が書けぬ」と言うのを売り文句にしていますが、なかなかどうして・・・読み書き算盤ができずに経営ができるはずがありません。
アホのフリをして相手を騙す関西商人の典型的な男です。
現代でも関西の財界人には三野村型の方が多く、吉本の芸人並みに「アテはアホちゃいまんねん、パーでんねん」などと卑下して、寝技に持ち込むタイプがいますね。
大阪には住友や、鴻池などもあり、さらに五代才助が新しい組織を作り始めています。
さらに、土佐の岩崎弥太郎が坂本龍馬の残した「海援隊」を基盤に、参議・後藤象二郎の後ろ盾で海運を中心とする商事会社を急拡大させていました。後の三菱です。
栄一にとっては第一銀行を「株式会社組織の銀行」として育て上げることが当面の目標です。
しかし、三井組の三野村は吸収合併、子会社化を仕掛けてきていますから・・・頼りになりません。
むしろ敵です。そうなると、もう一方の出資者・小野組が頼りです。
小野組の総帥は小野善助ですが、実質的に采配を振るうのは大番頭の古河市兵衛です。
後に、現代に続く古河グループの基礎を作る男です。
ドラマで五代才助が「商売の現場では魑魅魍魎が跋扈する」とアドバイスしますが、それは現代も変わりませんね。
皆さまも良くご存知の通り、政治でも、経済でも、綺麗ごとで済む話などありません。
小野組始末
栄一が采配を振るう第一銀行に三井組が「いやがらせ」を仕掛けます。一種の風評作戦です。
「小野組は社内の綱紀が緩んでいる。粉飾が行われている」などと言う噂を流します。
それを宣伝して歩くのが「三井の番頭さん」と仇名をつけられた井上馨ですから、政府首脳の耳に届きます。
江藤新平の法務省は「綱紀粛正」を旗印にしていますから格好の「鴨」ですね。
「そのような店に公金は預けられぬ」と政府資金の引き上げなどの処分を検討し始めます。
これをやられたら…資本金を引き揚げられたら、小野組は間違いなく倒産します。
小野組が倒産すると・・・第一銀行の融資先の半分は小野組関係企業ですから、融資が焦げ付いて第一銀行も連鎖倒産します。
これを回避するには「奥の手」を使うしかありません。
栄一は小野組番頭の古河市兵衛に因果を含ませ、政府の命令が出る前に担保物件の引き上げと、小野組による自主整理を仕掛けます。
政府の命令が出る前に倒産してしまいますから政府の命令は効力を発揮しません。
小野組の資産は第一銀行が担保として回収してしまいました。
この事件が栄一にとっては最初で、最大のピンチでしたね。
続・お蚕様の話
今週の放映かどうかわかりませんが、横浜で事件が起きます。
それを栄一と喜作が解決するのですが、事件の原因は「蚕種の値崩れ」でした。
当時、日本の輸出商品の主力は生糸でしたが、それに次ぐものとして「蚕種」がありました。
蚕種とは「蚕の卵」のことです。
当時のヨーロッパでは蚕の伝染病が蔓延して蚕種が絶え、養蚕ができない状況に陥っていました。
蚕種の輸入が急務です。
それに、日本の蚕種はアジアの中でも最もよい繭を作る品種だったようで、イタリア、南フランスなどを中心に需要が高かったのです。
先週も説明したと思いますが蚕と言うのは蚕蛾の幼虫です。昆虫です。
小学校の理科の時間に習いますが、昆虫は卵から幼虫に、幼虫から蛹に、蛹が孵ると成虫・蛾になります。
この蛾が産んだ卵が売り物になるのです。養蚕農家では「繭」を出荷しますが、次の生産のために、一部は成虫に孵らせて卵を残します。紙の上に卵を産ませますから「蚕卵紙」と言う商品になります。
これほどおいしい商売はありません。繭で出荷するのに比べれば、大して手間もかからずに繭の数倍の収入が得られます。
相模、武蔵の養蚕農家は蚕種を大増産します。濡れ手に粟・・・いや、蚕種でしたね。
我も我もと・・・瞬く間に供給過剰になり、外国人に買いたたかれ二束三文、大暴落を起こします。
武家の商法が笑われましたが、百姓の商法も似たようなものでした。