どうなる家康 第24回 信康弾劾状
作 文聞亭笑一
いやはや・・・築山殿に現れた武田の密偵が穴山信君だとは、驚き・桃の木・山椒の木!
まぁ、物語、小説ですから「何でもあり」ですが、実に可能性の薄い設定ですね。
穴山信君は後に武田を裏切り、家康と行動を共にしますが、武田家のNo2ともいえる大物なのです。
信君は信玄亡き後の、武田家の相続を巡って勝頼と覇を競った経験があります。
血筋、血統書的関係で言えば、勝頼よりも優位な立場にいました。
穴山家は三代前に武田本家から分かれた分家で信君はその当主です。
本家に何かあれば、跡継ぎの立場です。
信君の母は信玄の姉です。
信玄から見たら甥になります。
正妻は信玄の二女です。
・・・二重にも、三重にも縁組みしていて実に血が濃い。
武田が駿河を攻略した後は、江尻(清水)城主として駿河一国の支配を任されています。
川中島の合戦でも信玄の親衛隊として、いわゆる「竜虎一騎打ち」の現場にいたとも言われるほどに経験豊富で、山県、馬場などといった信玄の子飼いの武将たちから勝頼以上の信頼を受けていました。
いってみれば・・・勝頼のライバルなのです。
そういう大物が「滅敬」、「減敬」などと漢方医師を名乗って三河にまで出てくるのか?
まずあり得ませんが・・・ないとは断言できません。
これが時代考証の泣き所でしょうね。
穴山信君は、長篠の戦いでは奇妙な動きをしています。
右翼(馬場、真田)、左翼(山県)から武田の軍勢が織田軍に突撃しますが、中央にいた穴山隊は全く動きませんでした。
そして度重なる突撃の失敗を見て、戦わずして撤退を始めています。
勝頼の命令を無視していますね。
隣にいた信玄の弟・信豊(逍遙軒)も行動を共にしていますから、武田は身内で分裂していたのかもしれません。
大損害を受けたはずの長篠の戦いで穴山勢(駿河隊)と、信豊隊(信州飯田隊)は無傷で帰国しています。
長篠で死んだ兵の多くは甲州兵(山県隊)と信濃兵(馬場隊・・・深志、安曇兵、真田隊・・・上田、佐久兵)でした。
こういった動きから見て、従来言われているような「信玄の重臣達は勝頼を信頼していなかった」のではなく、「身内の親類達が勝頼を嫉んでいた」というのが武田軍団の敗因のようです。
家督相続は・・・難しいですね。
勝頼と信君のライバル意識が武田家を滅ぼした主因でしょう。
高坂弾正の忠告
高坂弾正は山本勘助亡き後の武田信玄、勝頼の参謀です。
川中島・上杉謙信への押さえとして松代・海津城に万余の兵を集め、守りを固めていました。
後に、彼が書いたと言われる兵法書・甲陽軍鑑は徳川家の戦術教科書になります。
長篠の敗報を受けて弾正は駒場まで勝頼を迎えに行き、着衣、具足などすべて着替えさせています。
領民に対して「負けではない」というアピールをさせ、さらに5箇条の緊急処置を提案しています。
① 小田原・北条氏との関係強化 甲相同盟の確認
②~④ 戦死した山県、馬場、真田の跡目を子息に継がせること
⑤ 命令に従わなかった穴山信君、武田信豊を切腹させること
なぜ負けたのか、高坂弾正は見抜いていましたね。
身内の亀裂が原因だから責任を取らせよ・・・と提案しましたが。勝頼は決心できませんでした。
⑤で指名された者たちが、後に次々と織田、徳川に寝返り、逃亡して武田を滅ぼします。
謙信の急死
ドラマでは、信長は余裕綽々と家康を「管理・制御」していますが、この時期、信長の尻にも火が付いています。
徳川家の世話を焼く余裕など全くありません。
長篠の戦い(1575)の翌年、柴田勝家を主将とする織田軍は加賀・手取川の戦いで上杉謙信に完膚なきまでにやられています。
長篠同様な、完敗でした。
これを見てか・・・畿内、大和の松永久秀が謀反を起こします。
更に、中国筋では織田に従っていた三木城の別所長治が毛利に通じ、織田に抵抗します。
四面楚歌、徳川の家政にくちばしを入れている暇はありません。
・・・が、ここで徳川に裏切られたら織田政権そのものが危機状態に陥ります。
・・・ところが、信長の運の強さでしょうね。
手取川の戦いの翌年、1578年4月、軍神とも言われた上杉謙信が急死します。
上杉家も景勝と景虎という二人の相続候補が後継者争いを始めて弱体化していきます。
御館の乱です。
これで北陸道の脅威が去りました。
信長の天下布武を阻害してきた竜と虎、謙信、信玄はこの世から去りました。
後継者の景勝、勝頼は一家をまとめ切れていません。
東からの脅威は一段落で、西に向かうことになります。
越後の混乱で、それにくちばしを挟んだ武田勝頼が大失敗をします。
長篠の敗戦の後、高坂弾正や小山田などが北条家との関係改善に取り組んでいるのに、越後の上杉家の内乱では勝頼が上杉景勝の味方をしてしまいました。
景勝のライバル・景虎は北条家の出身で氏政の弟です。
北条は当然のことながら景虎を支援しますから、越後という戦場で武田と北条は敵同士になってしまいました。
これでは外交交渉も水の泡です。
北条を敵に回してしまっては・・・武田の生き残る道はありません。
信康弾劾状
東の守りを完璧にするために、信長は徳川家の批判分子の粛清に掛ります。
岡崎の信康、瀬名に怪しい動きがある・・・と言う情報は以前から信長の耳に入っていました。
しかし謙信の動きと、それに呼応した関西の反乱で手一杯だった信長でしたが、謙信の死と、越後の混乱で余裕ができました。
松永久秀もそうですが、身内の怪しい動きは芽が小さいうちに摘み取ることが肝心です。
信康の妻・徳姫が信康の行状について二十四箇条の弾劾状を書き、父の信長に送った・・・というのが定説ですが、その情報がなくとも信長は岡崎の状況を把握していたと言われています。
また、弾劾状を書いたのは徳姫ではなく、酒井忠次自身で、酒井がそれを持って信長に注進したとも言われます。
家康の人生の中でも、最も深刻な「どうする?!」の場面ですね。
古沢脚本をじっくり味わいましょうか。