紫が光る 第28回 一帝二后

作 文聞亭笑一

いやはや・・・紫式部の一人娘/賢子を道長の御落胤にしてしまいましたか。

最近の時代考証では「可能性が否定できない物は史実として採用して良い」と言うことのようですから道長と式部が性交渉したということはあり得ない。

賢子は道長の子ではない。

・・・ということを証明しない限り、「ありうること」として歴史的仮説になります。

この辺が学問としての歴史のややこしいところですが・・・ここまでの物語の流れからすると「必然の結果」とも言えます。

道長とまひろを初恋の仲、駆け落ちまで誓った仲・・・という前提で構成している物語、小説ですから、二人の間に子ができても怪しくはありません。

その事実を聞いて、怒るどころか「してやったり(よくやった)」と喜んだのが夫の・宣孝・・・というところも面白いですね。

権力者・道長の「弱みを握った」と、この先の政治工作を考えます。

性倫理がおおらかな時代ですから、現代人の不倫だとか、ヤキモチだとか言う感情とは別次元だったと思われます。

賢子は・・・将来、高く売れます。五位の中級公家の宣孝が四位、三位と殿上人に出世できる玉を得たことになります。

その事が効いているのかどうかはわかりませんが、宣孝は賀茂の祭の演舞の役とか、宇佐神宮への代参の役とか、次々と中央政府の華々しい役割を担当することになります。

本人の実力なのか、それともまひろ/賢子を握ったコネの力か・・・出世街道に乗り始めました。

現代人の不倫とか、不実とか言う感覚とのずれですが・・・道長の家庭にしても、正妻の倫子との間に6人、妻妾の明子との間に6人の子沢山で、二人の妻との間の子らは概ね同年齢というのも面白いところです。

どちらかが妊娠中は別所に通う・・・という常識からすると、互い生まれ月に差が出るはずですが、二人の妻は同時に妊娠して、同時に出産するということを繰り返しています。

この辺も道長の不思議な行動です。

マメというのか、双方の妻に気を遣って、互いに差が出ないようにと頑張っていたのかも知れません。

何はともあれ、まひろは 賢子を出産しました。

彰子入内、藤壷御殿

道長の長女・彰子が入内して住まいとしたのは一条宮の「藤壷」と言われる一角です。

この辺りから・・・なんとなく・・・源氏物語の雰囲気が漂い始めます。

源氏物語の「藤壷」は桐壺帝の中宮、その人に言い寄って不倫をし、妊娠させてしまうのが光源氏という設定です。それを知らずにその子、不倫の子を天皇(冷泉帝)にしてしまう・・・というのが源氏物語のはじめの方です。

なにか・・・すごく危ないことを書いていますが、これが「昔話」として容認される辺りが時間感覚の差でしょうね。

人生40年の平安期と、人生80年の現代の差なのだろうと思います。

彰子・・・嫁入りしたのは12歳です。

中学一年生。男と女の世界には早すぎますね。

その意味でも「生け贄」と言われる所以でしょうか。

少女虐待、性奴隷・・・可哀想な政治の犠牲者とも思いますが、彼女の人生は後宮のドンとして87歳の長寿を全うし、道長の路線を引き継いだ御堂関白家の重鎮となりました。

その意味では可哀想な人生ではありませんでした。

一帝二后

彰子は嫁入り(入内)しましたが、一条天皇の思いは定子にあります。その定子が男子、皇子を産んでますますのめり込んでいきます。

「相思相愛なら・・・それがいいじゃん」と思うのが現代人の感覚ですが、「定子は出家した」「有髪の尼である」というところが・・・当時の倫理概念に抵触します。

仏の道に帰依する・・・というのは人生からの引退を意味します。

後世になると仏道の戒律が緩んできて「還俗」などと言う便法が編み出され、出家した者が現世に復帰できるようになりますが、平安中期にその便法はありません。

その意味で、定子は性交もしてはいけないし、子を産むなどと言うことは論外です。

その点で律令、当時の憲法に厳格な藤原実資や安倍清明などは「許されざる悪行」と一条天皇に批判的でした。

それがまた、公家社会全体の雰囲気でしたから一条や定子にとっては四面楚歌でしたね。

一条と定子の夫婦生活を誰も認めてくれません。

さて、彰子を後宮に送り込みましたが、それだけでは公家主流派の目的は達成されていません。

彰子の立場は女御で、妻妾の地位です。何としてでも妻の座・中宮に押し上げなくてはなりません。

そんなところへ運良く?太皇太后が亡くなりました。

席が一つ空きました。

順送りして定子を中宮から皇后に、彰子を中宮にすれば良いのですが・・・これがまた問題でした。

従来は、皇后は先代の未亡人、ないしは先代の夫人ですから、天皇の妻ではありませんでした。

今度は違います。今度は両方とも現天皇の妻です。

二人妻、前代未聞になります。

法治主義者というか、律令(憲法)を守ろうという意識が強い一条天皇や、実資などは二后に反対しますが、「出家した者を妃にしている」という一条自身が、法規違反でもありました。

妥協の産物・・・というのか、彰子の中宮就任が決まります。

この課程で、一条を説得したのは蔵人頭・行成でした。

「藤原家の氏神、大原野神社の祭礼は代々妃が祭主となって行うのが習いである。

にもかかわらず、数年それが行われていないのは中宮、皇后が出家の身で祭主を務められないからだ。

近年、天変地異や疫病が流行るのは、そういう大切な祭事が出来ていないからである」

理屈を捏ねて「定子の復帰(還俗)」を求めていた一条には決定的な通告になりました。

大原野神社ですが、藤原氏の氏神である春日大社の分社です。

氏神の祭礼を行うために、毎年皇后が奈良まで出かけるのは大変だ、そこで京に分社を勧進し、そこで祭事を行う・・・というのが藤原一門の便法でした。

「祭事を行う資格のある妃がいない」これが諸悪の根源だ・・・とやられて一条天皇は降参でした。

一帝二后は・・・道長がやった傲慢なる人事だ・・・と、皇国史観の明治の学者は批判しますが、仏教的倫理観が色濃く表れていた平安期では、一条天皇の方がワガママを言い張っていたようです。

天皇のやることはすべて正しい・・・天皇は神だから・・・というのが皇国史観ですが、天皇も人です。当然、間違いをやります。

平安末期の後白河法皇、南北朝の後醍醐天皇などはその意味で、体制への反逆者であったかも知れません。

それを無理矢理に「正義」に置き換えるから、怪しげな歴史になります。

廃仏毀釈を始め、明治期の宗教政策は異常を通り越して狂信的です。

追いつけ追い越せ、文明開化に狂奔した明治・・・日本史上では異常なる時代だったように思います。

が・・・その異常な興奮があったればこそ、現代があります。