八重の桜 29 戊辰戦争始末

文聞亭笑一

勝者と敗者、そして勝ち馬に乗ろうと紆余曲折、あいまいな態度をとり続けた者たち。

動乱は様々な人間模様を演出します。日本全国の300余りの大名家が、薩長・西軍に就こうか、それとも幕府・東軍に就こうか、どの藩でも内部抗争が起きていました。

全く抗争なしに藩を挙げて東軍に与したのは、会津藩、庄内藩など例外だったでしょう。

全国の主だった藩の維新後の処遇を見れば、維新政府の論考行賞がわかります。

10万石以上の主だった藩だけ拾って、栄枯盛衰を見ます。

知行 大名家 東軍/西軍 爵位 恩賞
弘前 10万石 津軽 西軍 伯爵 +1万石
盛岡 20万石 南部 東軍 伯爵 △7万石
秋田 22、5万石 佐竹 西軍 侯爵 +2万石
庄内 14万石 酒井 東軍 伯爵 △2万石
米沢 18万石 上杉 東軍 伯爵 △4万石
仙台 62,5万石 伊達 東軍 伯爵 △35万石
二本松 10万石 丹羽 東軍 子爵  
会津 28万石 保科松平 東軍 子爵 △25万石
川越 8万石 松井 西軍・朝敵 子爵  
10万石 奥平松平 西軍・朝敵 子爵  
土浦 10万石 土屋 西軍・朝敵 子爵  
水戸 35万石 徳川   公爵  
佐倉 10万石 堀田 西軍 伯爵  
宇都宮 7万石石 戸田 西軍 子爵 +1万石
前橋 17万石 結城松平 西軍・曖昧 伯爵  
小田原 11万石 大久保 西軍・朝敵 子爵 △4万石
長岡 7,4万石 牧野 東軍 子爵 △5万石
高田 15万石 榊原 西軍・曖昧 子爵 +1万石
富山 10万石 前田 西軍・曖昧 伯爵  
松代 10万石 真田 西軍 伯爵 +3万石
尾張 62万石 徳川 西軍 侯爵  
大垣 10万石 戸田 西軍 伯爵 +3万石
桑名 11万石 久松松平 東軍 子爵 △5万石
32万石 藤堂 西軍 伯爵  
福井 32万石 結城松平 西軍 侯爵  
加賀 102万石 前田 西軍・曖昧 侯爵  
紀州 55,5万石 徳川   侯爵  
10万石 稲葉 西軍・曖昧 子爵  
彦根 25万石 井伊 西軍・曖昧 伯爵  
姫路 15万石 酒井 西軍・朝敵 伯爵  
鳥取 32万石 池田 西軍 侯爵 +3万石
松江 18,6万石 松平 西軍・朝敵 伯爵  
長州 37万石 毛利 西軍 公爵 +10万石
広島 42,6万石 浅野 西軍 侯爵  
岡山 31,5万石 池田 西軍 侯爵  
高松 12万石 水戸松平     朝敵 伯爵  
徳島 26万石 蜂須賀 西軍・曖昧 侯爵  
土佐 20万石 山内 西軍 侯爵  
宇和島 10万石 伊達   侯爵  
松山 15万石 久松松平     朝敵 伯爵  
小倉 15万 小笠原     朝敵 伯爵  
福岡 52万石 黒田   侯爵  
久留米 21万石 有馬 西軍 伯爵  
柳川 11万石 立花 西軍 伯爵 +0,5万石
佐賀 36万石 鍋島 西軍 侯爵  
大村 2,7万石 大村 西軍 伯爵 +3万石
熊本 54万石 細川     曖昧 侯爵  
薩摩 72,8万石 島津 西軍 公爵 +10万石
中津 10万石 奥平 西軍 伯爵  
琉球 10万石格 侯爵  

新政府は、「公侯伯子男」の爵位を決めるに際し、10万石以上は伯爵、それ以下は子爵と決めたようですね。しかし、例外もあります。僅か3万石の藩主が伯爵にもなれば、15万石でも子爵にされた藩もあります。

また、47都道府県のうち、県名と県庁所在地の違うところが17県あります。そのうち14県は朝敵とされた藩がその地方の中心でした。とりわけ関東、東北にその傾向が強いですね。「神奈川」は一宿場町の地名です。「山梨」「栃木」「新潟」なども一村落の名前ですし、茨城、群馬、埼玉、長野なども出所不明です。ともかく「ご一新」を知らしめるための政策で、幕府、佐幕方へのお仕置きでもありました。

特筆すべきはこの時、沖縄が藩として独立したことです。それまでは薩摩藩の属国扱いでしたが、独立単位が認められました。これは、薩摩藩、さらに維新政府への資金提供の功績です。267万両という莫大な贋金を作ったことへのご褒美です。

113、「お前様の妻女・八重は敵弾に斃れたのでございます。目の前にいるのは山本三郎にございます。あなたの妻女は死んだのです」

落城に当たって、会津藩士以外の者は米沢に向けて城を落ちることが許されました。

幕府の兵士、新選組などは城を出ていきます。そして、八重の夫・川崎尚之助もその中に加わることになります。戸籍上は、やはり会津藩士の名簿には入っていなかったのです。

八重との婚姻も認められてはいませんでした。

八重が、なぜ尚之助との別れを決断したのか。

死ぬつもりだったのでしょう。父、兄、弟のもとに行くつもりだったのでしょう。

別れの言葉は、これから起こることの予言であったと思います。

114、八重は紅葉の中に、命ある木々が渾身の力で燃え尽きる一瞬のきらめきを見て、自らをそれになぞらえていた。落ち葉を踏みしめながら、曳かれていく自分も、その燃え尽きた一葉ではないかと思った。

落城後、婦女子は解き放ちとなります。が、八重は生き延びることを潔しとしません。猪苗代に連行される会津軍の兵士に交じり、弟の名前『山本三郎』を名乗って捕虜収容所へと向かいます。確かに、会津軍の戦士として数多くの官軍兵士を射殺し、砲兵指揮官として官軍兵士を殺傷してきました。女子供と一緒にされるのは我慢できなかったのでしょう。そして、捕虜は戦犯として処刑されるものだと思い込んでいました。それが、戦国以来の日本の戦争ルールでした。落ち武者狩りなどとは、そういうものです。官軍も、長州の大村益次郎などは、皆殺しのつもりでしたね。

ただ、官軍の総指揮をとっているのは、薩摩の西郷隆盛です。西郷は勝海舟や坂本龍馬に説教されて、国際ルールである万国公法の信者になっていました。万国公法では「捕虜を虐待してはならない」ことになっています。

「法治国家として認められないと、諸外国の政治介入を招く」という言葉が、西郷を動かしています。西郷隆盛は「敬天博愛」をモットーにしていた人ですが、彼の言う「天」とは、世界共通のルール、万国公法ではなかったでしょうか。さらに、日本人同士が殺し合いをすることの愚を、最も案じていた一人です。が、その西郷が10年後に西南戦争を起こします。この間の経緯は、小説のネタですねぇ。わかりません。

ともかく、生き残った会津藩士には、過酷な運命が待ち受けていました。つてを頼って全国に散っていくのですが、朝敵にされるのを恐れた諸国・各藩が受け入れを拒否します。結局は、帰農するか、政府から与えられた辺境の地・斗南や北海道に移住していくしかありませんでした。駿府に移住した幕臣たちもそうでしたが、太平洋戦争後の都市住民も、同じ境遇に苦しみましたね。歴史は繰り返します。

天災・人災…復興していくしかありません。悔やんでも、後の祭りです。

ここらあたりまでで、八重の前半生の区切りだと思います。

家業の鉄砲に好奇心をみなぎらせ、男勝りに生きてきた山本八重。会津若松城の攻防戦の結果、その夢は無残にも「敗戦」という結果で終わってしまいました。その上、会津の武士として潔く死のう…という思いも許されず、川崎尚之助との夫婦生活も、自ら封じ込んでしまう結果に終わります。

(株)アシスト様のご厚意で、「八重の桜」の総集編を「前編」「後編」に分けて広報誌に掲載させていただいております。

前半のドラマを以下のような小文にまとめました。今までドラマを見ていなかった方には、「これまでのあらすじ」でしょうか。

アシスト様の広報誌は、既に発刊済みですので、皆さんにお目通しいただきます。

なお、著作権はアシスト様にありますので、無断転載、転用はお断りいたします。

八重の桜 (前篇)

歴史は、それを眺める方向によって、かなり異なった様相を呈します。

従来の維新史は、勝ち組となった薩長の人々によって書かれていますから、正義は常に尊王攘夷派にあります。従って、賊軍とされた幕府、会津藩などは「日本の近代化を遅らせた悪人」となりますね。これを薩長史観といいます。

黒船来航

1848年、浦賀沖に突然4隻の米国艦隊が現れました。…と、歴史物語は書きますが、実は、ペリーの来訪は事前通告されていました。幕府はこれに対し、「日本は鎖国している。外国との窓口は長崎だから、そちらに回れ」と回答しています。

しかし、ペリーは外交儀礼無視の強硬策に出ました。勝手に東京湾の入り口に侵入したのです。いわば、押し込み強盗のような他国への乱入です。

これに対し、幕府は交渉のテーブルに着くか、それとも打ち払うか、二者択一に迷います。

尊皇攘夷

幕末の政界を揺るがせたのは尊皇攘夷運動です。私たちはこの四文字熟語で教えられましたから、一つの概念ととらえてしまいがちですが、実は、尊皇と攘夷は別物です。

尊皇とは、天皇を国家の象徴として敬うことです。これを提唱したのは水戸黄門・徳川光圀で、著書である大日本史はその思想のバイブル的存在です。水戸家が、尊皇運動の中心になるのは黄門様以来の伝統です。

一方の攘夷は鎖国維持の保守運動です。それに、武士道なども結びつき、日本の国法を無視する者は追い出せ、という政治主張になりました。この二つを結びつけて、一つの政策にしたのが、水戸藩を中心とする勢力でした。

こういう動き、どこか50年前の安保闘争に似ていませんか。米国の支配から脱したいという独立の思いと、戦争反対の理念が結びついて、国民運動になりましたが、あれも、尊皇攘夷運動の復刻版だったように思います。

会津藩24万石

今年の主役は、会津藩士の娘・山本八重が主人公ですから、維新史の見方は会津藩側から見ることになります。

会津藩の藩祖・保科正之は3代将軍家光の弟にあたります。篤実な性格で家光の信任が厚く、4代将軍家綱の後見人として大老職を務めた徳川政権の直系です。この家柄と、代々藩主の「将軍家第一」の思想が受け継がれ、東部方面軍司令官の立場を踏襲してきました。

このことが、維新の政争に巻き込まれ、悲劇的最期を迎えることになってしまった遠因です。

八重の家系

山本八重が生を受けた会津藩山本家は、保科家が会津に移る前、信州高遠3万石時代からの家臣だったのではないかといわれています。しかも、武田信玄の参謀として有名な山本勘助の末裔ではないかという説もあります。

幕末の黒船騒ぎの中で、兄の覚馬が佐久間象山、勝海舟などと交友関係を持っていました。この兄の交友関係が、八重を数奇な運命に導きました。八重の生涯を左右する男たちとの出会いは、そのほとんどが兄・覚馬の紹介によるものです。

八重の脱皮

八重は、次々と脱皮を繰り返し、会津のジャンヌダルク、教育者、明治のナイチンゲールと成長していきます。明治維新は男たちの歴史として語られることが多いですが、八重のような女性がいたことを知るのも、歴史の読み方として大切だと思います。男だけで世の中は動きませんからね。

戊辰戦争

どこからが戊辰戦争か、諸説ありますが、1864年の蛤御門の変以降を総称するのが、わかりやすいと思います。軍としての活動による内乱が始まったのは、ここからで、1869年の函館五稜郭戦争までの5年間でしょう。

この間に二度の長州征伐があります。そして鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城、長岡の戦い、会津落城と攻守所を変えての戦争が続きます。

白虎隊の悲劇

会津落城といえば白虎隊の集団自決が有名ですが、これは軍律に違反し、単独行動をとった若者達の悲劇です。会津藩本隊から孤立して、会津軍が行った焦土作戦を、落城と勘違いしての自殺です。歴史の教訓になるべきものではありません。

それを、あえて教訓化したのは昭和の軍部ですね。

白虎隊を、国を思う英雄に仕立て、学徒動員、少年志願兵など、多くの若者たちを戦争に駆り立て、異国の地に散らしてしまいました。