八重の桜 30 失意の八重

文聞亭笑一

会津藩の降伏は、いわば無条件降伏ですから、政府軍のなすがままです。

全国の大半の藩が西軍として会津に乗り込んできていましたから、その食料の徴発だけでも、会津の人民は苦労させられたでしょうね。慰安婦の供出も要求したかもしれません。

テレビでの政府軍兵士は、皆、黒い軍服姿ですが、多数派は鎧兜の兵だったはずです。

洋式訓練を受け、洋式戦闘服を着た者は薩長土肥など、限られた藩しかなかったはずです。服装的には会津兵と同じだったはずなのですが、そういう姿の政府軍兵士が出てきません。撮影に金がかかるから……でしょうね(笑)

降伏から2年間、八重は体を壊し、さらに気力も失せて、呆けたように過ごします。

生きる気力が湧いてくるのは、兄の覚馬が生きているという知らせが入ってからですが、その情報が伝わってくるのに2年かかります。進軍してきた薩摩藩兵士が、覚馬の身内を探していたのですが、後腐れを恐れた会津の住民たちが、関わり合いになりたくないと、情報提供を拒んでいたようです。

右の絵は<挿絵になるか?>と、描いてみました。

八重が、脱皮を繰り返していく様を描いたつもりです。が、…つもって良いのは麻雀だけ??…

会津の番傘からバーバリーへ。猪苗代の水が鴨川に流れ込む?

八重失意の2年間をNHKがどう描くか…読めませんので、新政府の動きを追ってみます。

武力、暴力によって政権を奪取しましたが、新政府に確たる政権構想があったわけではありません。江戸城開城後、付け焼刃、泥縄で政権構想を立てていました。

これを主導したのが公家では岩倉具視、薩摩の大久保一蔵(利通)、長州の桂小五郎(木戸孝允)、土佐の後藤象二郎などですが、それぞれに思惑が違います。

そこで、新政府の基本政策(公約?マニフェスト?アジェンダ?)をまとめなくてはならぬと相談するのですが、たたき台すらありません。あるのは五箇条の御誓文だけです。

ここで、明治元年3月に発布された御誓文の制定のいきさつを振り返ってみます。

まず、登場するのが坂本龍馬の盟友・越前の三岡八郎(由利公正)です。船中八策をベースに、五箇条の基本方針をまとめます。本来は、土佐の後藤が提案すべきところですが、後藤には、龍馬の意図がよく理解できていなかったんでしょうね。

三岡八郎の案(たたき台)

1、 庶民志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す  (人民主体・民主主義?)

2、 士民心を一にして、盛んに経綸(けいりん)を行うを要す    (経済重視)

3、 知識を世界に求め、広く皇基(こうき)を振起すべし     (開国・外交)

4、 貢士(こうし)期限をもって賢才に譲るべし         (世襲廃止、能力主義)

5、 万機公論に決し、私に論ずるなかれ        (議会制)

これを、土佐の福岡孝悌が文章を一部修正しています。細かい字句修正は割愛し、変更点は5項です。「万機公論に決し、私に論ずるなかれ」を「列公会議を興し、万機公論に決すべし」としています。薩摩の島津久光、長州の毛利の殿様、土佐の山内容堂などを意識していますね。細かい言葉づかいも、殿様たちへの配慮がうかがえます。

さらに、木戸孝允が手を加えます。4項「貢士期限をもって賢才に譲るべし」を「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし」とします。最終的に岩倉が手を加えてできたのが五箇条の御誓文…明治新政府の基本方針でした。三岡案とは順番が違います。木戸、福岡などが殿さまに遠慮しているのを、あっさりと元に戻してしまいます。

1、 広く会議を興し万機公論に決すべし

2、 上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし

3、 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめん事を要す

4、 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし

5、 知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし

ともかく、江戸と京都の二重政権ですから手間がかかります。

基本方針ができたのは鳥羽伏見戦争の直前で、発布をしましたが、誰も理解できていません。薩長土肥の政府軍士官すら、何のことかわかっていませんでした。

このことが、東北を制圧した後の軍制にゆがみを作り、遺恨を後世に伝えてしまいました。

新政府軍の兵士たちが戊辰戦争の後に残した言葉に「白河以北、一山百文」があります。…東北人は全く値打ちがない…と、バカにしきった言葉で、後に平民宰相といわれた南部藩出身の原敬などは、自らを「一山」と号して、爵位も拒否していますね。

中国、韓国が歴史問題をしきりに持ち出すのも、背景は感情論でしょう。バカにされた、という怨恨でしょうが、感情論を政治の世界に持ち込むのは非常識です。なぜ日本が朝鮮統合をやったか、…この後、西郷さんの征韓論が出てきますが、当時の朝鮮政府は維新政府を国家として認めず、バカにしきった対応を繰り返します。天皇の国書を「皇の字を使ってよいのは中国皇帝だけ」などと、突き返してきています。「広く皇基を振起すべし」という日本政府としては我慢ならなかったと思います。西郷の征韓論、その後の日韓併合、朝鮮政府の外交政策のミスですね。ただし、日本の侵略行為であったことは事実です。

その後の占領政策も下手でしたね。日本流に苗字まで変えさせたのは暴挙です。

115、八重たち四人が身を寄せた甚助の在所、川渓(かわたに)は東山の湯治場から湯川に沿って、さらに奥に入った山間の村だった。

若松と違って、冬になれば三尺以上の雪が降り積もる。

会津藩士たちは、それぞれに身寄りを頼って仮住まいを始めます。藩士の男たちはお預けになった越後高田藩、信濃松代藩や、江戸に送られて抑留生活ですから、どうなるかわかりません。全員処刑されることだってあり得ます。

女だけで生きていく、これは辛いことです。土地があれば、物も作れますが土地どころか家屋敷も没収され、無一文で放り出されたのですから、賃仕事で稼ぐしかありません。サラリーマンの専業主婦が家を追い出されて、パートで稼ぐしかないのと同じです。花街に身をやつす女性も多かったでしょうね。

会津藩に限らず、旧幕臣の家族を含め多くの女性たちがたどった道でしょう。芸者などはまだよい方で、大半は女郎屋、赤線に身を落とすことになります。

軍隊のある場所には必ずといってよいほど、こういう稼業が進出します。亡八稼業などともいわれますが、仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌の八徳を忘れた連中です。

再び朝鮮の歴史認識の話で恐縮ですが、日本軍の進駐先には、日韓を問わず、亡八達が巣食ったのは事実でしょうね。そこに、騙されて連行された女性がたくさんいたことも事実でしょう。しかし、それは「軍による強制連行」ではありません。その意味であの人の発言は正しいのですが、現在の沖縄駐在の米軍にまで、それを是とするような印象を与えたことは、世界の常識に反します。批判されてもやむをえませんね。

116、八重は、自分も仕事を持たねばと思い、村々の子弟に手習いを教えるようになった。何も始める気にはならなかったが、さくやうらを見ていると、そうしたそぶりをいつまでも見せるわけにはいかなかった。

男以上に頑張った…のは事実ですが、だからといって誰も褒めてはくれません。生活の面倒を見てはくれません。兄嫁が必死に頑張る脇で、ボケっとしているわけにもいきません。気が乗らぬままに寺子屋を始めます。

会津藩は、藩士の子弟には藩校・日新館を頂点にした教育システムが完備していましたし、文化程度も高かったのですが、農工商の一般庶民にはそれが及んではいませんでした。

八重は、近所の子供たちを集めて、読み、書き、ソロバンを教え始めます。山間の山村ではありますが、「これからは学問だ」という雰囲気は、薩長の新型兵器にさんざんにやられてしまったのを見ているだけに、庶民たちにも切実感があります。八重が思っていた以上に生徒が集まり、少しずつ元気と、遣り甲斐が出てきます。

余談になりますが、維新で朝敵とされた藩は、失業士族が多く出たこともあり、教育県となったところが多いですね。盛岡藩、会津藩、松本藩、松山藩、松江藩、熊本藩…。

「松」のつく町は「松平・徳川一門」と、なにがしかの関係があります。ちなみに教育県としては長野県が有名ですが、ここは江戸時代の末期に、日本一寺子屋の数が多かったところです。ルーツは江戸時代にあります。いや、平安時代から、落ち武者など政治犯が逃げ込むことが多く、教師に事欠かなかったためと思われます。