水の如く 28 大博奕

文聞亭笑一

いよいよ、中国大返しから山崎の合戦へと物語が展開していきます。この間の展開は、まさに小説的で奇跡的でもあります。「信長討たれる」の情報が秀吉に届いた時間と、小早川・吉川の毛利陣営に届いた時間の差は20時間です。この間に、清水宗治の切腹、和平文書の取り交わし、3万人に及ぶ軍勢の撤退と滞りなく進めたのですから、その組織行動は驚異的ですね。

現代だったら3千人でもこうは行かないでしょう。「なぜだ」「納得いかん」などと誰かが言いだすと「そうだ、そうだ」と追従者が現れ、全体行動が遅れます。「信長死す」の情報をどの範囲まで伝えたか…、それが決め手だったでしょうが、情報開示と守秘の組み合わせほど難しいものはありません。難産の末「特別秘密保護法」が成立しましたが、「全ての情報を開示せよ」という無責任野党や、一部マスコミ関係者の意見は、危機管理の難しさを知らぬたわごとだと思いますねぇ。集団を率いる難しさを知らぬ屁理屈に思えます。

20時間後に事実を知った毛利軍も仰天します。こちらも情報の扱いに苦慮したでしょうね。Openにすれば…騙された指導者の資質が疑われます。毛利家といっても戦国大小名の寄合所帯ですから、指揮官の信用を失えば空中分解しかねません。

秀吉側、毛利側、それぞれに苦悩の決断が続く梅雨空の3日間でした。

その後に続くのが日本史上初の大マラソン大会です。備中高松から姫路まで100kmを越える距離を30kg前後の鎧を付けて走ります。死の恐怖と未来への希望…この二つが全員を完走させました。現代の市民マラソンなどからは想像もつきませんね。

109、禅の世界もまた俗世で、恵瓊が安芸武田氏の筋目でなければ東福寺の総帥にはなれなかったであろう。彼は非常な才物で漢学の書物の総てを諳(そら)んじているほどだった。禅の世界が文字の教義を第一義的に重んずるようになっては堕落も甚だしい。一流の禅僧とは、寺格の高い寺に座る者を言い、覚悟において一流という意味ではない。

戦国物語には何人もの僧が登場します。「心頭滅却すれば火もまた涼し」と楼上で焼け死んだ快川和尚や駿河・今川の雪斎禅師、家康の軍師であった天海僧正など政治家としても辣腕を振るいます。安国寺恵瓊もその一人で、優れた政治家でしたが宗教家としては……確かに司馬遼の言う通りかもしれません。

これは現在の学問の世界にも言えることで、文字の教義を第一義的に重んずるようになっては堕落も甚だしい 偏差値重視の入学試験や進級評価ばかりしていると文化の進歩を阻害しますね。まぁ、民間企業も同様で、学歴や知識偏重になれば企業が傾きます。

恵瓊は禅僧にしては破戒坊主で、酒も飲めば欲も人一倍強いタイプでした。京都五山の一つ東福寺の総帥でありながら、毛利と羽柴の外交を一手に取り仕切るあたり、出世欲、名誉欲、政治欲の塊ですね。

しかし、その恵瓊の奔走によって羽柴、毛利の休戦交渉が成立します。

110、秀吉の萎(しお)れようはひどく、今後の方策の思案が浮かばないらしい。
秀吉にとって信長は、格別の存在であった。信長によって才能を引き出され、才能に相当する仕事と地位を与えられてきた。その信長が死ねば、秀吉の存在も消えてしまうような虚脱感を持ったのであろう。

「信長死す」の情報は、山陽道を、瀬戸内海を、西に向かって何便も走ったことでしょう。山陽道を騎馬で駆けるのが最も早いのですが、密使、急使が目立つわけにはいかなかっただろうと思われます。従って、町人に変装した姿で駆けたものと思われます。ただ、事件が起きてから秀吉の陣中に着くまでの時間が早すぎる感がありますから、播磨や備前では一部区間を馬で走ったかもしれません。計算上は正月の箱根駅伝ほどの速度になりますからねぇ。安土から秀吉への急使と言えば織田勢力圏は目立っても通過できそうです。

羽柴軍の矛盾と弱みを、敗亡の危機から救い出すものは、軍中の諸将に暗黙裡の希望を湧きあがらせることである。

あるいはこの機に乗ずれば天下をとれるのではないか…。秀吉が天下を取れば自分たちも一国一城の大名になれるのではないか……、こういう投機的気分を煽れば、それによって全軍崩壊の危機を一気に消滅できる。官兵衛はそう考えた。

羽柴軍の弱みは、軍中に忠誠心に欠ける一万にも及ぶ宇喜多軍を抱えていることです。矛盾とは信長の威を借りた交渉を進めながら、その信長がこの世にいないことです。

情報を開示し、「弔い合戦に引き返す」と目標の旗を立てたのでしょう。そのためには、何をさておいても秀吉がその気にならなくてはなりません。官兵衛が軍師として最高に輝いたのはこの時でした。まずは秀吉に夢を描かせます。誇大妄想患者に仕立て上げます。

それが…朝鮮出兵などの病状悪化につながりますが、後のことまでは計算できません。

秀吉は、後に太閤記の編集では、大村幽古が書いた「事実」が気に入らず、太田牛一に命じて「全て自分が考えてやったことだ」と書き直させています。虚脱状態も演技だったと…自慢していますね。回顧録は往々にしてそうなります。

111、毛利軍についての秀吉の戦場外交は、一応終わった。本能寺の一件にやがて気付くであろう毛利軍が、羽柴軍に対して追撃するかどうか…、秀吉の運一つにかかっている。<その時は・・・その時のことだ>人間はそれ以上のことを考えても甲斐はない。官兵衛はそう思った。

清水宗治の切腹の儀式が終わり、毛利からの五か国割譲と互いの撤退文書が取り交わされて一件落着、終戦になります。信長の死を知った後毛利がどう動くか、それこそが最大の関心事なのですが、追撃されたらそれまで…軍の半数以上は失うと予想されます。

が、官兵衛の最後の一手は堤防決壊です。満々と水をたたえた人造湖の堤を切ることで、水の力で攻め寄せる毛利軍を押し流してしまおうと考えていました。

ダムは、その一部を破壊すると、その場所に水の圧力が集中します。破壊箇所はみるみる拡大して大量の土石流となって下流に流れます。高松城を水没させた膨大な水量がありますから、水が引くのには数日かかります。黒田家家譜では母里太兵衛が指揮してダムの20か所を決壊させたとありますが、それほどの箇所を破壊する必要もなく下流に大洪水を発生させることができたでしょう。

水攻めという手段をとっていたことが、毛利軍に追撃を諦めさせた大きな因子でしょうね。若い吉川元春などは、叔父の小早川隆景に逆らって抜け駆けしてでも追撃をしようとしたようですが、その弟の吉川広家に窘(たしな)められています。

羽柴軍は宇喜多勢を先頭に撤退にかかります。山陽道をただひたすらに走ります。

黒田勢は殿軍(しんがり)としてダムの決壊作業を指揮し、土石流の激流の向こうに見える毛利軍を尻目に悠々と撤退します。あまり速く走れなかったのは、輿に乗った官兵衛が振り落されてしまうからだったでしょうね。

112、「・・・騙されたか」とは…隆景は不思議に思わなかった。むしろ秀吉の鮮やかさに感じ入った。いっそこうなったからには積極的に秀吉を支援し、秀吉をして織田政権の後継者たらしめるべく、毛利家としては恩を売るべきではないかと思った。

政治とはこういうことでしょう。天下を取る気のない毛利としては、秀吉軍団が速やかに自国領から出ていってくれたらそれで目的は達せられるわけで、追い討ちをかけて人殺しをする必要はありません。味方に犠牲を出す必要もありません。むしろ、信長亡き後の織田軍団の動静を見極め、手を握るべき相手として秀吉を選ぶのが良かろうと考えました。安国寺恵瓊の集めた情報で、ポスト信長の品定めはできていたとも考えます。

織田の軍団長5人のうち柴田勝家は、軍人としては優秀ですが政治家としては柔軟性に欠けます。丹羽長秀は器用な調整役ですが、強さがありません。滝川一益とは全くと言っていいほど接触がありませんから未知数です。秀吉か、光秀か…。光秀の方が穏健で教養もありますが、主殺しをしたという点で世間の評価が気になります。

秀吉に恩を売っておき、仮に後継者争いに勝ち残れば毛利家の地位を確固たるものに築けると考えた小早川隆景は強(したた)かな政治家でしたねぇ。その後の秀吉政権では五大老の筆頭として政権の中枢に参加することになります。

追い討ちをかけるどころか、殿(しんがり)を務めた官兵衛の要請を受けて毛利の軍旗10旈を貸し出しています。この旗が、山崎の合戦において明智勢の期待を粉々に粉砕しました。とりわけ、洞ヶ峠で日和見をしていた筒井順慶にとっては、秀吉方に付く決定的因子にもなります。毛利兵が秀吉に味方している…となれば、明智に勝ち目はありません。

たかが旗…ですが、されど旗…ですねぇ。

いよいよ、中国大返しから山崎の合戦へと物語が展開していきます。この間の展開は、まさに小説的で奇跡的でもあります。「信長討たれる」の情報が秀吉に届いた時間と、小早川・吉川の毛利陣営に届いた時間の差は20時間です。この間に、清水宗治の切腹、和平文書の取り交わし、3万人に及ぶ軍勢の撤退と滞りなく進めたのですから、その組織行動は驚異的ですね。

現代だったら3千人でもこうは行かないでしょう。「なぜだ」「納得いかん」などと誰かが言いだすと「そうだ、そうだ」と追従者が現れ、全体行動が遅れます。「信長死す」の情報をどの範囲まで伝えたか…、それが決め手だったでしょうが、情報開示と守秘の組み合わせほど難しいものはありません。難産の末「特別秘密保護法」が成立しましたが、「全ての情報を開示せよ」という無責任野党や、一部マスコミ関係者の意見は、危機管理の難しさを知らぬたわごとだと思いますねぇ。集団を率いる難しさを知らぬ屁理屈に思えます。

20時間後に事実を知った毛利軍も仰天します。こちらも情報の扱いに苦慮したでしょうね。Openにすれば…騙された指導者の資質が疑われます。毛利家といっても戦国大小名の寄合所帯ですから、指揮官の信用を失えば空中分解しかねません。

秀吉側、毛利側、それぞれに苦悩の決断が続く梅雨空の3日間でした。

その後に続くのが日本史上初の大マラソン大会です。備中高松から姫路まで100kmを越える距離を30kg前後の鎧を付けて走ります。死の恐怖と未来への希望…この二つが全員を完走させました。現代の市民マラソンなどからは想像もつきませんね。

しかし、その恵瓊の奔走によって羽柴、毛利の休戦交渉が成立します。