乱に咲く花 32 絵堂の戦

文聞亭笑一

今年の大河ドラマは面白くない…という意見が多く、かくいう私が見ても面白くないのですから視聴率が低迷しても当然でしょうね。その理由はなぜか、「情」が濃すぎて重苦しいからだと思います。歴史と言うものは過去の事実を伝えるものですが、情と理を5:5で見ないと視聴者の想像力を掻き立てません。どちらが多すぎても面白味が失せます。

今回のドラマは、男が出てくると理屈ばかり、女が出てくると情ばかり、そして活劇場面が殆どありません。女性脚本家のせいかもしれませんが「喧嘩をしてはいけません」の発想が強すぎて戦闘場面は殆どありませんね。撮影に要する費用は過去のどの大河よりも安上がりでしょう。たまたま「戦争反対月間」に当たりますから、今週の「絵堂の戦」もサラリと流すのでしょうが、維新戦争のきっかけとなった戦闘ですから、より掘り下げた描き方をしてほしいものです。

明治維新と言うのは身分革命です。その、革命戦争の最初が、絵堂の戦です。

その意味では、日本の近代化の幕開けでもあります。士農工商の身分制度を壊す戦いです。

太平洋戦争の悲惨さ、その反省から99%の国民は戦争反対です。安倍首相も、石原慎太郎も、橋下徹も…皆、戦争はしてはならないと考えています。

しかし、戦争とか外交と言うものは一人でやるものではありません。必ず相手があります。

既成秩序を打ち破ろうという勢力が現れて、摩擦を起します。現在の世界情勢はサミット、G7とかG8とかいう先進国が作った秩序で安定を保ってきましたが、それに対抗する勢力が力をつけてきました。BRICS…ブラジル、ロシア、インド、中国などが対抗勢力として台頭してきています。さらに、それに続く資源国が経済成長を果たし、発言権を増してきています。

「G7幕府」の法に、諸藩は従わず、薩長…いや、中露はあからさまに反発しています。

さらに、中東、アフリカなどの国々は「格差」に憤り、武力による解決を求める動きもあります。北朝鮮しかり、イランしかり、イスラム国しかり…。なんとなく…「攘夷」と叫んで京の町を暴れまわっていた志士たちと似ています。

イスラム原理主義・・・なんとも理解しがたいのですが、それよりもなお理解しがたいのが憲法原理主義、沖縄の被害者原理主義…。原理主義というのは、議論の余地がありません。「絶対」という原理を掲げる人たちに議論は何の効用も発揮できません。「話せばわかる」が現代社会の常識だったのですが、原理主義の人には通用しません。「絶対」と言う言葉を多用する人には、何度話しても「糠に釘うち」なのです。世の中に原理主義が増えてきました。危ないですねぇ。

さて、長州藩は高杉晋作という一個の行動派によって大混乱に陥ります。

60余人による下関蜂起の成功が、奇兵隊を動かし、内乱に突入します。

西郷の政治的狙いは、二重打ちになっている。西郷は長州藩をその滅亡から救い出そうとしていた。この点では長州藩の味方であった。
長州藩から鋭気を抜き、雄藩のうちでの二流藩にしてしまおうとしていた。彼にすれば、他日、幕府を倒すとき長州を味方として従属させ、あくまでも薩摩が主導権を握らねばならぬと考えており、そのためにはこの際、長州に好意を売らねばならず、更に同時に長州から毒気を抜いておく必要があった。毒気とは…奇兵隊をはじめとする諸隊である。

明治維新のヒーローは長州の高杉、土佐の龍馬、幕府の海舟、そして薩摩の西郷・・・と云うのが定番で、その敵役に新選組の近藤勇、会津の松平容保ということになっています。この中で戦国の世に生まれていたら一国一城の主となっていたであろう…と思われるのは西郷隆盛ですね。

政治家なのです。軍事力だけでなく、戦略、謀略の限りを尽くし、都の中を引っ掻き回します。戦国時代に一代で勢力を確立した英雄はあまたいますが、信長、秀吉、家康のタイプではありません。最も近いのが毛利元就ではないでしょうか。目立った戦はせず、軍事力を背景に外交力で近隣を併呑していくタイプだったように思います。「西郷ドンのユッサ好き」というのは言い古された言葉ですが、西郷自身はあまり戦争をしていません。ユッサというのは戦の鹿児島訛りです。一時期のアメリカ外交、そして現在の習近平中国のやりかた・・・軍事力で脅し、金融力で懐柔し、「力による外交」を得意とします。

西郷が長州征伐の実質的司令官になったのは、蛤御門の変で活躍したからです。朝廷も、幕府も、蛤御門までは戦争らしい戦争をしていなかったのですから、西郷の活躍は「長嶋茂雄、王貞治」くらいのスーパーヒーローでした。幕府軍が動いたのは、島原の乱以来でしたからね。

「西郷、おぬしに任せた。長州のことは、よきに計らえ」

これが政府軍(幕府軍)の基本スタンスです。

それを良いことに…西郷は討幕への戦略、布石を打ち始めます。

西郷のこの発想、多分にイギリスとの薩英戦争での教訓が生きています。

「軍艦三隻、拙者の方に引き渡されたい」と、晋作が三人の艦長に説いたところ、三人とも
―――どうせ幕府に没収されるかもしれぬ軍艦だ、幕府に奪られるくらいなら高杉にくれてやった方が良い、と思い、三人とも喜色を浮かべて晋作に協力した。

僅かな勢力で反政府軍に対抗しようという高杉晋作も、欧米式近代戦略を十分に理解していました。藩の海軍、軍艦を乗っ取ってしまうというのは、当時の誰も発想しえなかった革命戦争への決定打だと思います。これも…下関戦争で四か国軍に完敗した経験を生かしています。海軍による沿岸支配、その威力を十二分に知っていたからこその着眼でしょう。軍艦一隻の火力は歩兵千人にも相当します。

三人の艦長たちが高杉晋作の説得に靡いたのには、松島剛蔵を斬罪にしてしまった椋梨の失敗も影響しています。長州海軍は小田村伊之助の兄である松島剛蔵が創始者というかリーダで作り上げてきた組織なのです。「どうせ幕府に没収されるかもしれぬ軍艦だ、幕府に奪られるくらいなら」という思いと「松島さんが処刑されるなら、俺も危ない。ならばこの際…」という思いが相まって高杉の反乱軍に協力したのではないでしょうか。

当時の海軍というのは向学心に燃えた下士たちの集まりで、藩内における地位は決して高くなかったのです。幕府とて同じことで、太平洋横断をやってのけた勝海舟とて海軍奉行どころか、正式には艦長にもさせてもらえなかったのです。

正社員と派遣社員・・・といった感じの身分差があったようですね。

作戦が、一人の独裁者によってではなく、集団の合議で行われて成功した例はない。椋梨藤太は、戦争遂行上、自分が独裁権を握りたかった。が、上士社会という、この古びきった組織における煩瑣な秩序習慣は、それを許さなかった。
古来、政府軍が革命軍に敗れるすべての要素を、萩の藩政府はもっていた。

椋梨藤太は長州藩の政務約筆頭、つまり首相なのですが、決定権はありません。長州藩は中国八か国の太守であった毛利輝元時代の遺構を引き継ぎ、家老だけで二十人近くいます。さらに、分家の藩主がいて、32万石の軍事力を使いきるわけにはいかないのです。軍事力を使うには、都度、国会承認(?)ならぬ御前会議に諮り、「そうせい公」の「そうせい」の承認を必要としました。機敏な軍事活動ができるはずがありません。

今回の安保法案もそうですが、「都度審議」では機動力、即応力が発揮できないからの法案で、別に戦争をするための法案でも何でもありません。「戦争法案だ!」「徴兵制になる」などと云うのは単なるデマ、煽動文句にすぎません。だいたい民主党は政権を取っていた四年間に防衛大臣を任命し、菅が観艦式などで悦に入っていたではありませんか。

政府軍というのはウクライナでも、イラクでも、アフガニスタンでも負け続けていますねぇ。

指揮系統が複雑だからです。

企業の経営でもそうですが、「会議、会議…」「稟議、稟議…」では次々とシェアを奪われ負け組に転落します。現場の裁量権を確保し、行き過ぎをチェックする程度にしないと活力が失われ、取り返しがつかなくなりますね。党利党略よりも全体最適を心得るべきでしょう。

一旦は政府軍を撃退したが、大軍に包囲された奇兵隊が活路を見いだすには「決死の突撃」しかない。全員に死を覚悟させる手法は宗教に似ている。宗教に儀式が必要なように、軍指揮官にも儀式をおこなう演技が必要であった。山県狂介にとって、今がその時であった。

絵堂の戦というのは一種の奇跡です。奇襲です。三千の正規軍に三百の奇兵隊が戦いを挑むのですから、奇襲戦法しかありません。奇襲戦法というのは一度しか通用しないというのも歴史の教訓で、だからこそ信長も桶狭間の戦は二度と繰り返していません。秀吉が成功した高松城水攻めも、それを真似した石田三成は失敗しています。

太平洋戦争での真珠湾攻撃も奇襲で、大成功でしたが、その後は警戒されて、ことごとく失敗を繰り返しました。

絵堂の戦の後、山県狂介(有朋)が取った戦法は「玉砕突撃」です。これが…成功するのですが、その成功体験が日本陸軍の伝統になって、203高地やら太平洋の島々、更には沖縄での悲惨な負け戦に繋がります。中東で「イスラム国」を名乗る連中がやっているのもそれに似ていますが、長続きするとは思えませんね。

宗教的儀式・・・今でもよくやっていますね。キャンペーンなどという名で短期決戦をやります。その時は「軍指揮官にも儀式をおこなう演技が必要であった」いう通り、キックオフとか出陣式とかを派手にやります。エイ・エイ・オーの世界ですよ(笑)

まぁ、これも短期だから有効ですが…長続きはしません。せいぜい3か月…。