次郎坊伝 33 但馬無惨

文聞亭笑一

少しずつ…面白くなってきました。ネットのフォロワーなどの評価も上がってきているようで、脇役の小野但馬を演ずる高橋一生の人気が、女性ファンを中心に高まってきているようです。ちょっとニヒルで、井伊と今川の双方の立場を使い分ける演技が好評のようです。

小野但馬守政次は小野道好と書かれた文書もあります。井伊家家伝などでは極悪非道の陰謀家という悪役に描かれていますが、テレビの脚本家と同じく今川の圧政を裏で支えた善人として描いた記録もあります。歴史は勝者の立場で描かれますから、本当のところはドラえもんの「どこでもドア」でもない限り、わかりません。

井伊谷三人衆による井伊谷城攻略

家康の進軍は慎重でした。浜名湖周辺は今川勢力が強いと見て随分と内陸側から攻め込んでいます。

家康の本拠地・岡崎から浜名湖に向かうには海寄りから順に東海道の本道、多米峠越え、本坂峠越え、宇利峠越え、陣座峠越えなどの道筋がありますが、そのうち最も山側の陣座峠越えの道を選んでいます。

これは遠州攻略の先鋒を担った菅沼定盈の本拠地・野田(新城市)をベースキャンプにしたことにもよりますが、先導役になった近藤康用の領地が近く(新城市宇利)、さらに鈴木重時の山吉田(新城市・上吉田)もその近くです。この二人の恭順の程度を確かめるために、この道を選んだ可能性もあります。

とりわけ用心したのは近藤康用でしょう。井伊谷三人衆の内、菅沼定久は野田城主・菅沼定盈の親戚です。そして鈴木重時は菅沼一族と濃厚な縁戚関係にあります。まず、安全牌でしょう。

近藤だけは徳川との縁がありません。その分だけ井伊谷攻略で手柄を立てる必要がありました。従って井伊谷城攻略作戦では目立たなくてはいけません。その点を前回のテレビではよく描いていましたね。

家康は陣座峠を越えて奥山の方広寺に入り、ここに二晩の間、滞陣します。この奥山は井伊一族の奥山家の所領ですから、事前に内通の交渉事がなされていたものと思われます。奥山家は女系図の家柄で、井伊一族はじめ菅沼、鈴木とも濃厚な婚姻関係にあります。御曹司・虎松の母も奥山家の出身ですし、小野家に嫁いだのも奥山家の娘です。井伊が男系図で井伊谷を支配していますが、女系図でいけば井伊谷の支配者は奥山家です。

井伊谷城は山城です。3月に同級生仲間と登ってきましたが強烈な急坂の連続です。まともに攻め登っていたら、とても落とせるものではありません。井伊家の屋敷というか、政庁は井伊谷城の麓にありました。小野但馬が陣を張っていたのは、多分こちらだったでしょう。

近藤たちが攻め寄せた時は、井伊谷城は無人、小野但馬は三岳城に転進していました。・・・が、テレビでは違ったストーリで描くようです。菅沼軍の攻撃を受けて逃げた。菅沼軍はこれを追いかけて多数を討ち取った…と、菅沼家・家譜は記します。戦わずに奪った・・・では格好が付きません(笑)

小野但馬の処刑

三岳城も味方の裏切りで内部崩壊し、但馬は堀川城へと逃げますが捕縛されます。

小野但馬が氣賀の堀川城に逃げたのは、この城に今川方の兵士や住民たちが籠って徳川に抵抗姿勢を見せていたからです。堀川城では対岸の堀江城の大沢氏胤と連携して徳川に敵対姿勢を見せていました。城代だった瀬戸方久は早々に城から逃げ出していますから、乗っ取られたというところでしょうか。

ともかく堀川城には1500人近い今川方が籠り、侵攻する徳川に抵抗したようです。

徳川軍8千がこれを攻めます。城兵のうち半分は討ち取られ、半分は捕虜になったといわれますが、この捕虜も、全員・都田川の刑場で処刑されます。1500人の半分と言えば少なく見積もっても700人!こんな大量虐殺は信じられませんから、大半は逃げだしたでしょうね。一ケタ少ない70人くらいが処刑されたものと思われます。大久保彦左衛門の三河物語でも、この時の様子を「皆々なで斬りに致し候」とあります。また刑場跡には獄門畷(ごくもんなわて)の地名が残っていますから大量処刑があったのは事実でしょう。

これと、小野但馬の処刑のどちらが先かわかりません。

家康は「主家を乗っ取る不埒な奴」と小野但馬を磔(はりつけ)にしています。公開処刑です。

この時、但馬の息子二人も首を斬られ、小野家は断絶した…となっていますが、テレビでは小野但馬は独身を貫いています。このあたり・・・作者の友情物語、初恋物語の構想の、成り行きでしょうね。

今川氏真の逃避行

氏真は主だった者たちに裏切られ、朝比奈泰朝を頼って掛川城に籠ります。大井川より西にまで逃げてしまったということは、結果的に駿河を放棄したことになります。これが今川にとって命取りでした。

武田軍の侵攻に援軍を出せなかった北条氏政ですが、年が明けてから大軍を編成して救援に出動します。北条にしたら掛川の朝比奈と連携して武田を挟み撃ちにする予定だったのですが、その時すでに掛川城は徳川に包囲されていて、朝比奈も氏真も身動きが取れません。

駿河で武田と北条の決戦か…と思いきや、信玄は久能山城など拠点の城郭に守備兵を残して、さっさと引き揚げてしまいます。これで、形の上では今川が駿河を回復した形になりますが、名目だけです。

信玄の政治家としての戦略は今川・北条よりも数段上です。今川を裏切った者たちを裏で支援し、駿河を実効支配していきます。北条軍が進駐している間はおとなしくしていても、北条が去ったら武田色に染まるという形で、これは川中島合戦と同じ構図です。最終的に武田の領地にしてしまいますからね。

そして、北条に対しては北から圧力をかけます。海津城の高坂、沼田の真田などが上州の北条勢の城を分捕ったりしますから、氏政も駿河に長居はできません。今川の手伝いをしている間に自分の領土を荒らされてしまいます。

掛川城の今川氏真も家康に囲まれて孤立無援、開城し、遠江を徳川に割譲して北条の小田原に逃げるという和議に応ずるしかありませんでした。逃げましたが、駿河は北条が軍事支配していますから名目上は駿河の国主の座を回復したことになります。

しかし、北条もそれほどお人好しではありません。

「北条家の嫡子・氏直を氏真の養子にして、今川家の家督を継がせよ」と要求してきました。

要するに…今川の名前だけ残してやるから国を譲れ・・・ということです。

さすがにボンボンの氏真としてもこの要求まではのめません。小田原を逃げ出して徳川を頼ります。

これは一年後の話ですね。

この頃信長は

井伊谷のマイナーな話だけに、この頃の日本全体の動きも俯瞰しておきましょう。

永禄11年という年(1568)は中央でも大きな事件があった年です。足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長が、在洛の三好、松永の勢力を追いだし、義昭を第15代足利将軍に据えています。義昭は信長を副将軍にしたいと奏上するほどの惚れこみようで、このニュースは全国を駆け巡ります。

武田信玄にせよ、上杉謙信にせよ、毛利元就、長曾我部元親にせよ、織田に天下を奪われては身動きが取れなくなります。信長の専横を許すわけにはいきません。

上洛へ…全国の有力大名の注目は京の都に集まります。