次郎坊伝 34 掌中の珠

文聞亭笑一

これまで皆様には「予告編」的に情報を送ってきましたが、ネタ本の入手ができず、テレビの予告を見て見当をつけるしかありませんでした。それもあって、なかなか同期しにくいので今回から「後追い」に切り替えます。まぁ、その方が書くのが楽だ…という筆者の手抜きの方策でもあります。

武田、徳川の今川領侵入で、この地域は一転して戦場と化します。遠州は今川の圧政に苦しんだ・・・という観方もありますが、今川家は代々都ぶりの伝統を持ちますから、他の地域に比べて過酷であったとは言えません。むしろ文化の点では甲斐や三河より進んでいて、物成りも良い土地柄ですから、民衆は甲斐や信濃より豊かな条件下にあったとも言えます。現在でも静岡県は、岡山県と並んで日本の平均的豊かさレベルと言われ、各企業の新製品の売れ行き調査のテストマーケティングに使われる場所です。

松下家のこと

直虎は徳川に寝返る証明として直親の妻・虎松の母であるしのを、曳馬の松下家に後妻として送りこみました。一種の人質です。ただ、この時点で松下家は曳馬(浜松)城主・飯尾豊前の傘下にありますから、今川方同士の婚姻にも見えます。裏で寝返る約束がなされていたかどうかは不明ですが、松下家の次男坊・常慶は徳川の隠密として活躍していますね。

松下家の系図を紹介してみます。

 

虎松の母のしのが再婚したのは松下清景ですが、その弟・安綱が出家していて常慶を名乗ります。家康の情報源として松下家を離れ、今川、武田などの情勢を探っています。出家、僧籍に入れば常慶の動きがいかようであれ松下家の責任にはならないというところがこの時代の抜け道です。その意味で井伊家の南渓禅師も同様の立場にあります。

この松下家で特筆されるのは清景とは別系統の之綱です。清景の妹が嫁入りしていますから関係は近いですね。松下之綱は「太閤秀吉育ての親」として有名です。

日吉丸物語にもありますが、秀吉は尾張・中村の家を飛び出したのち、針売りとして遠州から駿河を放浪します。その時期に、秀吉の才を見込んで侍としての基礎教育をしたのが之綱でした。秀吉が曲がりなりにも平仮名を書けるようになったのは松下之綱の教育の賜物でもあります。その後、日吉丸が今川を見限り信長に仕官したのは皆さんがご存知の通りです。

松下家は曳馬の頭陀寺城の城主です。大名とは言えませんが、井伊谷三人衆と同様なレベルの地方豪族の一人です。後の話になりますが、今川没後は家康の参加に入り、江戸幕府では大身の旗本として明治まで続きます。たまたま私の住む川崎市に所領があり、近所の神社(杉山神社・鉄の神)に、松下家由来の記録が残ります。この神社、後に橘の記にも登場する古社です。

井伊家、井伊谷の地頭職(領主権限)

先週のテレビでは、いったん井伊の領主復活を約束した家康が、酒井、石川など重臣の反対でそれを取り消し、次郎坊に詫びを入れる場面がありました。

これは、歴史的事実は別として、今川時代の領主が名目上は虎松だったからです。次郎・直虎は後見人で領主(地頭職)ではありません。それに、実質は別として、この時代に女城主(領主)は公的に認められていません。

この時の曳馬城主も女性でした。飯尾豊前の妻・お田鶴・・・駿府時代は亀姫と呼ばれ鶴姫・家康夫人瀬名と氏真の妻の座を争うライバルとして描かれる小説があります。甲駿相三国同盟の結果、鶴も亀も用なしとなり、鶴は家康に、亀は飯尾豊前に払い下げ(?)られた、と山岡荘八は描きます。次郎坊の祖父・直平を毒殺したのもこのお田鶴御前でした。井伊家、徳川家夫々と因縁のある女性です。

が、領主ではありません。飯尾豊前は井伊直親同様に氏真から寝返りを疑われ、暗殺されています。

次郎坊とよく似た境遇ですが、こちらは出自が吉良家です。今川より上席の高家です。

吉良の姫・・・駿府時代の家康の初恋の人であったと書くのが、山岡荘八の小説「徳川家康」です。

問題は鳳来寺山に避難していた虎松が、それまで通り井伊家を名乗っていたか、それとも母の嫁ぎ先の松下を名乗っていたかです。時期は定かにわかりませんが、虎松は松下家の養子になります。これは今川方の目を避けるための方便で、そうしたのは南渓、次郎坊の策だったでしょう。虎松は井伊家にとってかけがえのない虎の子、掌中の珠です。虎松にもしものことがあれば井伊家は公的に断絶してしまいます。

これが裏目に出た。徳川からすれば、井伊家がなくなれば井伊谷の領地は家臣団への報償として使えます。家康がどう思ったかは別にして、徳川カンパニーとしたら井伊の領地を認めない方が得策ですし、井伊から領地を奪ったのは今川であり、その手先の小野但馬です。手を汚さずに済みます。

この頃虎松はどこにいたのか。

●出家して鳳来寺山で修業に励んでいたという物語もあります。

●松下家の養子として、頭陀寺城にいたという説もあります。(山岡荘八・徳川家康)

出家なら家督を捨てたことになります。養子なら井伊の名跡を離れたということです。いずれにせよ、井伊家には正統な後継者がいない…ということですから、井伊家は井伊谷の領主にはなれません。

代わって近藤康用を城代に起用しますが、これは家康他の徳川経営陣にとっては誤算でした。

当初は、井伊の親戚筋で、住民とも馴染みのある鈴木重時を起用しようと思っていたようですが、この鈴木重時が堀江城攻めで戦死してしまいます。井伊谷侵攻で手柄を立てそこねた鈴木としては、堀江攻めで功を焦ったようです。鈴木が城代で赴任すれば騒動は起きなかったかもしれませんが、やや目立ちたがり屋で土地勘・人情に薄い近藤が城代になったことで、氣賀の反乱が起きます。堀川城に反・徳川分子を呼び集めてしまう結果となりました。徳川はかなりてこずります。

徳川贔屓の史書では「反乱分子を一カ所に呼び込み、一網打尽にした大御所様の叡智」と書きますし、アンチ徳川の歴史書・小説は「若き日の家康は、人を見る目がなかった」と家康の失策だと書きます。

南渓和尚の言う「答えは一つだけとは限らぬ」という今年の大河の基本テーゼですかね。

ともかく、井伊家は領主の座を追われ、天正五年(1575・・・8年後)虎松・万千代が井伊姓に復帰して300石の微禄をもらうまで、井伊家は断絶しています。その翌年(1576)、万千代は高天神城で刺客から家康の命を救うという大手柄を立て3000石をもらい、井伊家が井伊谷に戻ります。ですから8年間、井伊家は井伊谷を追われていたとも言えます。