紫が光る 第29回 黄泉への旅

作 文聞亭笑一

前回は・・・一気に時が過ぎました。

西暦で言うと999年から1000年までの一年間を、高速で駆け抜けた感じです。

定子が一条天皇の第3子を身ごもり、出産して、産褥で死ぬ・・・この十月十日が一回分の放送で描かれました。

ほかに・・・事件がなかったのでしょう。

平安時代が、将に「平安」に過ぎていったようですね。

平安時代

794ウグイス平安京・・・と、何の疑いもなく「平安京に都を移してから、藤原氏を中心とする公家が政権を担った時代」と理解していますが・・・名付けの親・桓武天皇はなぜ「平安」と命名したのか、なぜその地域を山背国から山城国に改名したのか、考えたこともありませんでした。

ネットをサーフィンするくらいでは本当のところはわかりませんが、この時期は東北での蝦夷との戦闘が一段落して、やっと日常が戻った・・・平安が戻った・・・といった安堵感からの命名だという説があります。

東北への遠征軍は10万人と言われます。

その兵糧の調達の為に政権は財政危機に陥り、重税や徴兵など政権のピンチだったようです。

平安遷都は怨霊説、疫病説、など様々な仮説が語られますが、戦争による経済疲弊からの脱出、新都市建設に目を向けることで、国民の不満をそらす・・・といった政治宣伝であった可能性が高いようです。

「平安」とは「戦争」とは対極にある言葉です。なんとなく、この先にプーチンが使いそうな言葉でもあります。

なお、この時の蝦夷戦争、大戦争なのに歴史伝承は残っていません。

その後の、坂上田村麻呂の遠征が大々的に伝えられますが、関東、東北は中央政権とは距離がありましたね。

桓武天皇の末裔である平将門が「反朝廷」の旗を立てたりもします。

関東・東北の古代史は闇の中ですね。

道長の病悩

前回の放送で道長が倒れましたが、永井本に依れば「虚弱体質」と言うほどに何度も倒れます。

心臓など循環器系の発作と、鬱病などの精神系の症状の合わせ技でしょうか。

政敵に呪いをかけて精神不安に陥れる・・・という手法が当然のように行われていた時代です。

政権を握る・・・と言うことは「呪われる」ということで、作用反作用の法則のような物です。

現代でも同じで、ネット上で「炎上」が発生するのは・・・古代語で言えば「呪い」でしょうね。

政敵の精神錯乱を狙った卑怯卑劣な政治手法ですが、これが日常茶飯のように使われるのが現代の選挙です。

アメリカの大統領選挙などを見ていると、まさに「仁義無き戦い」ですね。

ルールには違反していませんが、マナー無視の誹謗、中傷合戦です。

平安期の公家社会・・・表立っての政争がない分だけ、裏に回って陰湿な情報工作が横行していたでしょうね。

ドラマでは全く取り上げていませんが、円融系・一条政権(道長政権)の対抗馬は冷泉系の皇太子(後の三条天皇)なのです。

一条に何かがあれば、確実に政権交代が起きます。

そうなれば大臣以下の政権スタッフの総入れ替えもあり得る話です。

虎視眈々と・・・その時を待っている集団があることを忘れてはいけません。

それがまた・・・道長の懊悩の原因でもあります。

定子の死と、残された親王、皇女

皇后定子が亡くなって「一帝二后」という異常事態は解消されました。

その後に冷泉天皇の后、太皇太后も亡くなりましたから、残るは皇太后の詮子と中宮の彰子の二人だけです。

後宮の異常現象はようやく解消されました。

さて、問題は母親を失った定子の子どもたちの扱いです。

とりわけ一条天皇の唯一の皇子・敦康親王を誰が面倒を見るか・・・です。

慣習に依れば母の実家である伊周、義隆兄弟が保護者になるところですが、彼らは朝廷における地位が停止されています。

親王の保護者になる資格がありません。

一条天皇は「旧に復し、伊周を保護者に・・・」という気持ちもあったようですが、朝廷内の殆どの公家達は伊周を嫌っていたようです。

その中を敢えて・・・というほどの勇気を以て断行、という芸当は・・・流石に天皇といえども主張できませんでしたね。

助け船を出したのは定子の子どもたちの祖母・詮子でした。

長男・敦康親王は中宮・彰子を養母とする。

皇女達は祖母である詮子自らが預かり育てる。

結果的に、すべて道長が氏長者として面倒を見る・・・という裁定でした。

彰子に皇子誕生を期待する道長、倫子にとっては辛いところですが、彰子が男子を産むという保証がない以上、円融系の皇統を確保しておく必要があります。

この当時、天皇は「冷泉系と円融系の両者が交代で務める」という慣習になっていました。

つまり、一条天皇の後の皇太子は冷泉系の居貞親王(三条天皇)でした。

しかも皇太子には既に3人の皇子も生まれています。

ですから敦康親王にもしものことがあれば冷泉系が続いてしまうのです。

それもあって、敦康をないがしろには出来ません。

このあたり・・・後に源氏物語では「明石の君の産んだ子を育てることになった紫の上」として描かれることになります。

そういう道長夫婦の苦渋を知るや、知らずや、・・・一条は彰子の内侍、敦康の母代わりをしていた「定子の妹(道隆の4女)」に手を出して懐妊させます。

姉妹ですから・・・どこかに定子の面影を求めていたのでしょうね。

だだ、この女性も出産後に亡くなってしまいます。

詮子の死

歴史教科書では「道長の専横」と表現しますが、それは三条天皇を退任に追い込み、後一条天皇の外祖父として辣腕を振るった後半生の話ですね。

一条天皇の時代は姉の女院・詮子が政権のドンで、一条も、道長も、詮子の手駒の一つと言った感じだったようです。

その詮子が40歳を過ぎたばかりの若さで亡くなります。

症状的には「老衰」のような症状でした。

朝廷内での政争の坩堝の中での一生でしたから、詮子の一年は現代人の2年分の体力、耐力を消耗したのかも知れません。

冷たくなった祖母の布団に潜り込む3歳になったばかりの定子の二女・媄子の姿が哀れだったと記録に残ります。

詮子の最後の人事は伊周、隆家兄弟の復権でした。

世を挙げて女院の喪に服している頃・・・まひろの夫・宣孝も流行病で死んでしまいます。

なにかこの ほどなき袖を濡らすらむ 霞の衣なべて着る世に (紫式部)

とるにたりない私のごとき者がどうして夫の死を悲しんで泣いていられましょうか

今は国中の方々が喪服を着て、女院の喪に服しているときです。