水の如く 31 秀吉政権へ

文聞亭笑一

山崎の合戦に「戦国大スペクタクル映像」を期待していたのですが…あっさりと、戦闘場面なしで終わってしまいました。拍子抜けではありますが、戦闘場面は撮影に金が掛かりますからねぇ。エキストラの人件費だけでも莫大でしょう。

司馬遼の「播磨灘…」では30ページほどに渡って描写していますが、官兵衛は天王山の裾を回り込んで左翼で戦っています。一緒にいたのは秀長の軍勢で、明智勢とは互角の戦いでした。そこへ、秀吉本隊に押し出された織田信孝の軍勢4000が加わります。人数が加わったら有利のはずですが、この弱兵団が敵の鉄砲攻撃を受けて逃げまどいます。これが秀長の軍に逃げ込んできて大混乱を起し、戦闘の邪魔をしました。

現代でも、いない方がマシ…という戦力もありますね。

不景気になると企業がよくやる「販売応援」…手空きの製造部員や間接要員が、営業に出向してくるケースですが…これも同様でしたね。邪魔になるばかりで営業の助けには殆どならないことが多いのです。敢えて効果と言えば「売れないのは販売がだらしないから」などという言い訳の意見が消えることくらいでしょうか。商品力の弱さを現場で確認することでした。その意味で…社員教育・研修の一環としてなら価値はあります(笑)

明智軍は一旦、勝竜寺城に逃げ込みますが、この時も官兵衛の献策で包囲網の北東側を空けておきます。ここから逃げ出した光秀一行が小栗栖で土寇に襲われ、討たれてしまったのです。土寇…百姓や野盗のように言われていますが、蜂須賀を筆頭とする秀吉の特殊工作部隊が暗躍していたような気がします。逃げる筋道はあらかじめ想定できますからねぇ。光秀は、秀吉の用意した罠にはまった…というところでしょう。

121、かくして天下分け目の山崎合戦は終わった。
山﨑周辺は西国街道沿いから淀川河畔にかけて敵味方の累々たる死体で埋まった。
死者は明智勢三千余人、秀吉側も一説によればそれを上回る三千三百余名を数えた。
記録に残る限り、どちらの死傷者も織田軍団が一度の合戦で出した最大の数である。両軍ともに、いかに死力を尽くした天下分け目の戦いだったかが知れよう。

人と人との殺し合い…運動会の騎馬戦ではありません。槍や刀といった人殺しの道具、刃物を持った者たちが戦えば死人が出ます。この説が正しいかどうかは別として5000人から6000人の人が戦死しています。負傷者はその5倍は出たでしょうね。明智方15,000、秀吉方40000と言われますから、参加した半数は死傷しています。熱中症で救急車に運ばれたというのとは訳が違います。この後に起こった関が原の戦ではさらに大規模な死傷者を出しますが、それでも太平洋戦争での死者の数には遠く及びません。

戦いというのは「カッコイイ」ですが、ファミコンの世界ではありません。小刀すら使ったことがなく、怪我をして血を出したこともないような孫世代が、コンピュータソフトで「覇王信長」などというゲームに興じるのは賛成できませんね。

秀吉軍の死者は、そのほとんどが戦いの前半に出ています。天王山と淀川の間の狭い道から、山崎に飛び出したところを狙い撃ちされ、さらに集中攻撃されています。万歳突撃のようなものでしたね。乃木大将の203高地です。

一方、明智軍は天王山攻撃隊が全滅しています。秀吉に先を越され、上からの攻撃で追い落とされ、逃げ道に進出してきた官兵衛らの秀長軍の餌食になりました。そして、泥沼の淀川を遡って背後に回った秀吉軍の猛攻を受け、敗走する途中で討ち取られています。

この戦いを読むとき、山崎界隈の地形を忘れてはいけません。巨椋池とそこから流れ出る淀川の河川敷は現在の3から5倍と考えなくてはいけません。釧路湿原のように淀川は蛇行し、随所にワンドがある大湿原だったのです。この湿原を敢えて進軍した秀吉別働隊の加藤光泰、それに続いた池田勝入の軍が勝負を分けました。

人の行く 裏に道あり 花の山

122、秀吉はこの山崎合戦の終了に伴い、堀久太郎に大功を立てさせる必要があった。久太郎に大功を立てさせることによってゆくゆく大封を与え、ほかの織田家家老たちとの政争の上で有利な条件を作ろうとしていた。

堀久太郎、信長の寵臣です。森蘭丸、坊丸などと同様に信長コンツェルンの秘書課長のような立場の若者です。久太郎は信長から秀吉への指示を伝えるべく備中にいたのですが、そこで明智の謀反を知りました。

秀吉にとっては軍監、監査役のような存在でしたから目の上のたん瘤ですが、織田家中の多数派工作をする上では貴重な存在です。官兵衛は秀吉軍団にあっては知名度も、信頼も抜群ですが、いわゆる織田ホールディングスにおいては無名の存在です。「秀吉の下でチョコマカ動く奴」という程度の評価でした。

それに引きかえ、堀久太郎はホールディングカンパニーの社長秘書です。社内人脈はすべて掌握し、個々の軍団の内部事情も熟知しています。織田ホールディングスの社長の座を狙う秀吉にとって、これほど重要な「玉」は他にありません。

かといって、信長の秘書課長というだけでは値打ちが限定されます。弔い合戦で大手柄を立てたという勲章を与え、そういう場面に役割を与えてくれた秀吉に感謝させなくてはなりません。山崎合戦後の最もおいしい場所、それは瀬田の唐橋でした。明智軍の敗残兵は本拠地の坂本城か、丹波亀山(亀岡)を目指して逃げます。近江に向かう兵は唐橋を渡らなくてはなりません。亀岡を目指す兵は老の坂を越えなくてはなりません。ここに罠を張れば、労せずして将校の首が取れます。堀久太郎には瀬田の唐橋に向かわせます。

秀吉にとって、この合戦は「中国事業部長」から「本社社長」へのチャンスです。NO5がNO1になる登竜門です。一緒に戦った「欲のない」No2の丹羽長秀、信長の乳兄弟の池田勝入(忠興)など、多数派工作に余念がありません。

123、合戦の翌14日、勝竜寺城は落ち、秀吉はさらに進んで近江の三井寺を本営とした。
この夕方、光秀の首が発見され、三井寺に送られ、光秀の死が確認された。

光秀の首…これが本物ではなかった…という説があり、それを根拠に新説が出ます。

光秀は生き残って家康の参謀をした。家康の師・天海というのは、光秀ではないか…

などと言うのを筆頭に、歴史SF(推理小説)の世界が花盛りです。文聞亭もその一人ですから史実が曖昧なところには大いに妄想を展開しますが、光秀と家康…やはりパートナとなるには違和感が残りますねぇ。

秀吉が京都を素通りして三井寺にまで軍を進めたのは…、公家の籠絡を怖れたのだと思います。光秀を唆(そそのか)せて信長を討たせた朝廷にとって、その敵討ちに乗り込んだ秀吉は信長の後継者の魔王です。「黒幕はお前だ!」と、牙をむかれたら一巻の終わりです。しかも、秀吉は公家たちが蔑視する最低身分の出身者です。身分と格式だけで生き残っている公家や朝廷にとって、秀吉ほど怖い存在はありません。まさに革命が起こってしまったのです。

戦々恐々…これが京都市中でした。

124、秀吉は山崎合戦の後、清須城で催された信長後継者を選ぶ会議で、柴田勝家らが推す信長の三男の信孝に対抗して、信長の嫡孫にあたる幼少の三法師を押して主導権を握ると、翌年には賤ヶ岳合戦で勝家を敗死させた。

映画「清州会議」で、この辺りの駆け引きを面白おかしく描いていました。一種のパロディーとして面白く鑑賞しましたが、信長の三男の信孝に対抗して、信長の嫡孫にあたる幼少の三法師を押して という筋書きは実に政治的、屁理屈の世界です。官兵衛や秀長、蜂須賀小六では思いつかないアイディアですねぇ。

こういう発想が思い浮かぶのは政治のプロではないでしょうか。私は関白の近衛前久ではないかと思っています。光秀を教唆して信長を殺しました。その敵討ちをした秀吉は、いずれ真犯人捜査に乗り出します。その矛先を別に向けさせるには…恩を売るしかありません。血統・・・戸籍の権威は天皇家です。弟より嫡孫…そんな理屈を教唆したと思ますね。後に、前久は秀吉を藤原摂関家の養子にし、「豊臣」という第6の摂関家を認めています。

徒手空拳の公家にできることは理屈でしかありません。その理屈に天皇の名で権威付けし、権力者を誑(たぶら)かす…これこそが公家の真骨頂です。

この路線に乗ってから、秀吉は栄耀栄華を極め、そして耄碌して「夢のまた夢」に消えて行きます。

官兵衛は、この路線には乗れませんでした。秀吉との間に隙間ができ、それが徐々に開いていきます。山﨑合戦以後、官兵衛は秀吉の重大機密にはタッチしていません。中国事業部企画室長は、本社経営戦略スタッフから外されたようですね。賤ヶ岳でも、局地戦の一翼しか担っていないので、テレビではあっさり済まされそうです。