どうなる家康 第26回 人は石垣、崩れたり

作 文聞亭笑一

いやはや・・・前回の映像には感激しました。出演した俳優達も涙と鼻水が一緒になってくしゃくしゃでしたが、私も同じで・・・3回ほどティッシュのお世話になりました。

瀬名が亡くなる現場に家康が訪ねていく・・・99%あり得ない場面ですが、あったとしたら・・・あの場面かもしれません。

放送終了後に、主役の二人が浜松城の天守閣から「歴史は後世の都合で描かれる」と言っていましたが・・・その通りです。

最近は「神の君は・・・」という気味の悪いナレーションが消えてホッとしていますが、家康を偉人とするために江戸期には様々な歴史の捏造がなされました。

家康自身がと言うより、日光東照宮を築いた3代・家光の時代に「東照神君・英雄伝説」が作られました。

瀬名の死

今回は瀬名が自ら死を選んだ・・・となっていますが、通説では「信康の命乞いをすべく浜松に向かった」と言われます。

自らが全責任を負い、信康は無関係と・・・息子を守るための直訴です。

しかし、佐鳴湖の・・・今回の場面と同じ場所で、護送してきた岡本平左衛門と野中三五郎に殺害されています。

そうせよ・・・と命令したのは家康ですが、本心はどこかに隠してしまいたかったのでしょう。

「殺りました」と復命してきた両名に対して、家康は実に不機嫌な対応を取ったと言われます。

それが元で、岡本は精神を病み、野中は帰農してしまいます。

家康の未練に付合わされた二人・・・実に気の毒ですが、家康の真意を慮れなかった、

忖度できなかったのです。

現代でもよくある話ですが、忖度して・・・吉もあれば凶もあります。とかくこの世は難しい。

武田王国の崩壊

武田軍団の崩壊の原因を「長篠の戦い」による戦力の減退・・・とするのが通説ですが、最大の理由は経済力の枯渇でしょうか。

信玄の時代に最盛期を迎えた甲州金、これの鉱脈が尽きました。

勝頼の時代になると新しい精錬方法で、昔の精錬滓から再精錬などしています。

更に、外交の失敗から西に(織田)、北に(上杉)、東に(北条)、南に(徳川)と軍隊を休める暇がありません。

収入が細り、出費がかさんでは財政破綻に向かいます。

二つ目は、信玄亡き後の組閣・人事の失敗です。

古参の山県、馬場、小山田などを排除して、若手を抜擢したのは良いのですが、親戚筋に対しての遠慮が災いします。

長篠の戦いの後、信玄の知恵袋と言われ、甲陽軍監の著者でもある高坂弾正は

長篠の敗戦の戦犯として「穴山信君、武田信豊を切腹させよ」

と提言しています。

明らかなる命令違反、軍律違反ですから当然の処置でしょう。

しかし、勝頼はそれができませんでした。

逆に、高坂を疎外していきます。

が、長篠戦に参加した将兵の多くは高坂の提言を「尤もだ」と支持しますから・・・勝頼批判が鬱積してきます。

一方で・・・穴山信君、武田信豊(逍遙軒)、木曽義昌・・・武田の一門衆と呼ばれる親戚筋は、処罰の恐怖を感じ始めます。

武田軍団内部での疑心暗鬼・・・信玄時代の「鉄の団結」が綻びてきました。

そして・・・川中島で上杉を睨んでいる高坂弾正が・・・信康事件の1年前に、歴史物語から消えていきます。

消された可能性もあります。

誰が、何のために・・・これまた、闇のうち。

山崩れ

戦国最強、赤備えの武田騎馬軍団と恐れられた武田軍が・・・あっけなく崩壊します。 

戦いがあったのは高遠城で勝頼の弟・仁科五郎信盛が抵抗しただけで、あとは戦わず逃げています。

まずは信玄の娘婿の木曽義昌、真っ先に織田に寝返って道案内をしています。

その褒美として武田滅亡後に安曇、筑摩の2郡と深志城(松本城)を手に入れています。

次に前線の飯田城にいた武田信豊・・・自分の本拠地である小諸城に逃げてしまいます。

高遠城での激戦・・・お花見の観光地として高遠城跡の小彼岸桜はとりわけ有名ですが、「仁科盛信の血の色で染められた桜」とも言われます。

勝頼の弟・武田五郎・仁科盛信は地の利、要害を生かして善戦しましたが織田軍3万対3千・・・力負けです。

こうなると・・・武田勢は総崩れです。

高島城(諏訪)や深志城(松本)は戦わずして逃げます。

小諸城では逃げ帰った城主・武田信豊の首を斬って信長に降参しますが、降参した家老は「そこまでして生き延びたいか、卑怯者」と信長の逆鱗に触れて処断されてしまいます。

勝頼の地盤である信州がこの有様では、甲斐、駿河は厭戦気分が横溢します。

駿河の穴山信君は家康の元に白旗を掲げて逃げ込みます。

甲斐でも、都留郡の小山田などは北条に逃げ込みます。

「天目山に逃げた武田勝頼一行は僅か三十数名・・・」

さもありなん・・・です。

誰しも命は惜しい、犬死にはしたくない、あたりまえです。

文聞亭家のルーツ・市川但馬守も本拠地の麻績の山に逃げ込んで帰農してしまいました。

ご先祖様が生き延びてくれたおかげで、私があります(笑)

一世一代の大接待

 武田討伐戦で徳川軍団は殆ど働いていません。

武田支配下の駿河に攻め込んだのですが、江尻城の穴山信君は早々に降参して、信長への口利きを依頼してきます。

殆ど、抵抗もなく駿河を掌握し甲斐へと進軍します。

家康にとってそれよりも、頭が痛いのは「穴山信君をどう信長に仲介するか」です。

ましてや・・・今回の脚本では家康の愛する妻と息子を籠絡して、死に追いやったのは穴山です。

「降参してきましたので、助けてやってください」では人がよすぎますね。腰抜けです。

どうしますかね・・・古沢脚本が見ものです。

ともかく、家康は信長を「富士山周遊観光」に接待します。

富士五湖、朝霧高原、白糸の滝を巡り、駿府から東海道を安土に向けての物見遊山の旅です。

家康は武田攻めで戦費を使っていません。

何もしないで駿河一国を手に入れました。

ここで言う戦費とは火薬代です。

当時の戦費で大きな物は①兵士の食費、②馬の食料、③鉄砲の火薬です。

戦費の予算をすべて信長の接待費につぎ込みました。

三河侍にはこういう仕事の才覚のある人材は少ないのですが、青年時代に駿河で過ごした人脈や、穴山の知恵をもらって才人を集めます。

「金に糸目をつけぬ」となれば・・・富士山の山の幸、駿河湾の海の幸・・・豪華絢爛な宴会になったでしょうね。

後世の歴史で「家康はケチだ」と言うことになっていますが、この時ばかりは大盤振る舞いをやったようです。

瀬名と、信康を失った心の傷を癒やしたいためのバカ騒ぎ・・・そういう側面もあったかもしれません。

信長に対する「当てつけ」の意味合いも・・・可能性として残ります。