紫が光る 第30回 ものがたり

作 文聞亭笑一

いやはや・・・道長家の「女の戦争」の部分が放映されましたが、一夫多妻というのも難しいものですね。

あちら立てればこちら立たず・・・などと言うとおり、どちらにも良い顔を続けるわけにはいきません。

場面は詮子の「40の賀」の祝いの席でした。

当時は40歳から「老人」になります。

40の賀、50の賀、60の賀・・・というのが一般的で、還暦、古希、喜寿、米寿などと言う、現代人が行う長寿祝いは一般的ではありませんでした。

40歳まで生きれば、マズマズ人生を全うしたと言う感覚でした。

平均寿命がどの程度だったのか、統計も記録もない時代ですが、疫病や災害に対して防護手段を持たない時代でしたから40-50が「寿命」だったでしょう。

乳幼児の死亡率が2割近い時代でしたから、平均寿命などという指標を持ち出せば平均寿命は30歳くらいになってしまうかも知れません。

10歳くらいまで、無事に育ったら・・・40代が寿命です。

正妻の子、妻妾の子

道長の二人の妻・・・正妻の倫子と妻妾の明子はいずれも源氏の出身です。

倫子は宇多天皇の曾孫・・・父は左大臣でした。

道長の後援者でした。

明子は村上天皇の孫・・・父は源高明、一世を風靡した政界のドンでしたが、疑獄で失脚します。

保護者のいなくなった明子を引き取り、養育したのが詮子・・・そして道長に面倒を見させます。

血統は甲乙付けがたいのですが、現役左大臣の娘と没落した左大臣の娘と言うところで、経済力に大きな差が出ました。

この二人、競争するように子供を産んでいます。互いに6人ずつです。

表は道長と倫子、および明子の子供達の一覧です。

子どもたちの「その後」ですが、明らかに差が出ていますね。正妻方が優位です。

なお、舞を踊ったのは長男の田鶴(頼道)と次男の巌君(頼宗)です。

倫子も明子も長寿でした。当時としては異例の倫子90歳、明子87歳でした。

舞の席に妻妾まで呼ばれるのは異例です。

これには道長の仲間達が「あいつ、何を考えているんだ」と陰口を叩いたり、作法重視の実資が渋い顔をしたりする映像が流れました。

ただ、明子を呼んだのは詮子ではなかったかと思います。

娘代わりにして育てましたから「道長の妾」ではなく「詮子の養女」として参列させたのではないでしょうか。

席も詮子側の下座でした。巌君の踊りの師を表彰したのも・・・詮子から天皇へのリクエストではなかったか?

只し、この臨時の表彰が祝賀の雰囲気を壊してしまいました。

責任を感じた詮子を狭心症の発作が襲います。

詮子の死去・・・一つの時代の転換点です。

ものがたり・・・の始まり

伊周の宮廷復帰と清少納言作の「枕草子」の発行が一つのセットとして登場しました。

定子の宮廷サロンの様子を四季折々の風物詩を加えて「・・・いとをかし」と綴ったものですが、宮廷内で人気になります。

当時は書写しか増刷する技術はありませんから「爆発的に・・・」とか「炎上」することはありませんが、それでも・・・書写のくり返しで宮廷内や、公家社会に急速に拡がったものと予想されます。

これに・・・刺激を受けて紫式部が「源氏物語」を書き始めた・・・というのが今回の脚本です。

が、式部が物語を書き始めた時期には、江戸時代以来4説あって、どれとも結論は出ていません。

① 結婚する以前

② 結婚後、宣孝の生前から  

③ 宣孝の死後

④ 彰子への出仕後

ただ、執筆を始めるとなると・・・書き損じや反故まで合わせて膨大な量の紙が必要になります。

紙は貴重品です。

庶民が気楽に手にできるものではありません。

京の都で使われている紙の殆どは税金の「調」として諸国から調達してきたものです。

調は郡衙(郡役場)の単位で決まりますが紙を調とする郡衙は40ほどあったと言います。

これらはすべて官に入ります。

清少納言の場合は定子の筋、伊周の筋から提供されていました。

が、式部・まひろの場合、宣孝亡き後、無官の父親が貴重な紙を調達できるとも思えませんし、越前時代に越前紙を横流しで貯めて置いた・・・などという芸当の出来る人にも思えません。

弟は式部省にいますが、官有の紙を自由に持ち出せるほど高官でもありません。

どこかからか・・・スポンサーが必要ですね。 道長のラインしかないでしょう。

式部の「物語」観

源氏物語の中に、光源氏の口を借りて紫式部が物語観を述べた部分があると・・・研究者(倉本一宏「紫式部と藤原道長」)が言います。

物語というものは神代からこのかた 世間に起こったことを書き残したものだと言います。

「日本紀」などはほんの一面に過ぎないのです。

これら物語にこそ、道理にも適い、委細を尽くした事柄が書いてあるのでしょう。

・・・つまり漢文で書かれた公式の歴史書である「日本書紀」ばかりではなく、各地に残る言い伝えなどの物語にも真実の歴史が残され、伝承されている・・・と言うことでしょうし、正史・日本書紀と神話集の古事記が並立している事の意味合いを感じたりもします。

漢文に詳しく、「日本紀の局」などとも言われる紫式部の意見だけに重みがありますね。

続けて、次のようにも言います。

誰それの身の上として、ありのままに書き記すことはないにしても、良いことであれ悪いことであれ、この世を生きている人の有様の、見ているだけでは物足りないこと、聞いてそのまま聞き流しに出来ないことを、後の世にも言い伝えさせたい、そんな事柄の一つ一つを、心に包みきれずに言い置いたのが 物語の始まりなのです。

(玉鬘・蛍の巻)

なんとなく・・・「源氏物語執筆の動機」といった文章に見えますね。

先週の映像ではまひろが娘の賢子に「竹取物語」を読み聞かせていました。

物語の奥にある真実・・・月に召される人を重ねたのでしょうか。

なお、この「物語論」は源氏物語の後半です。執筆の動機ではないかも知れません。