八重の桜 31 ほのかな光

文聞亭笑一

会津藩が降伏したのが9月22日、庄内藩がその翌日、そして9月25日に盛岡・南部藩が降伏して戊辰戦争は終わりました。この間の東北戦争で総指揮官をしていたのが西郷隆盛です。

が、その西郷さん。11月に入ると「おいどんの役目は終わったでごわす」と言ったかどうか定かではありませんが、さっさと鹿児島に帰ってしまいます。中央政府から、政権の立役者が消えてしまいました。さらには、幕府側も江戸無血開城の立役者である勝海舟が消え去っています。勝は、江戸の旗本たちの追放された先、駿府で、幕臣の受け入れに奔走していました。

一方、新政府の中核・総理大臣の三条実美、官房長官の岩倉具視は京都に残っています。つまり、江戸には新政府の主要人物がいなくなりました。ここから、大久保一蔵(利通)、桂小五郎(木戸孝允)などの文治派と、山県有朋、中村半次郎(桐野利明)など軍事派の不協和音が出てきます。政権は執ったものの、政策は決まらない。…あるのは五箇条の御誓文という旗印だけです。

これって、三年前の政権によく似ていますね。「コンクリートから人へ」「少なくとも県外」などと浮かれ、騒いでいた政権党派がありましたね。ただ、明治と平成の違いは、大久保利通というカリスマ的独裁者がいたことです。喧嘩は強いが頭は空っぽという軍人たちを無視して、彼の思う方向に力づくで国家建設をしていきます。もちろん、その後ろ盾にいたのは岩倉具視でした。翌年(明治2年1887年)3月、明治天皇が江戸に下向します。江戸は東の京、東京と改まります。ここから明治の幕開けです。が、江戸の庶民たちは冷ややかでしたね。

上からは 明治だなどというけれど 治まる明(めい)と下からは読む

などという戯れ歌が流行りました。なかなか洒落た歌を詠むものだと笑ってしまいます。庶民から見たら「とても治まるめい」と映っていたようです。が、反対勢力となるべき旗本は、駿府に集団島流しです。会津など朝敵藩も捕虜収容所生活か、謹慎中ですから、文句を言う人もいません。むしろ、新政府が忙殺されたのは、勝ち馬に乗っただけなのに、恩賞を欲しがる諸藩との対応だったようですね。自分たちも新政府の一員であるなどと考えていた藩は皆無です。徳川幕府の後は島津幕府か、毛利幕府か、…さて、どちらにゴマをすろうか…、という感覚だったようです。

八重が、身寄りを頼って疎開中のことですが、中央では混乱の中で、着々と大久保による改革が進められていました。五稜郭が陥落した後の6月、版籍奉還が布令されます。藩ではなく県になり、藩主ではなく知事になります。が、これは名前だけ。藩の解体が進むのは明治4年の廃藩置県、そして明治6年の徴兵令です。この二つの改革で藩が消え、武士という階級が消えました。

そこまでは混迷の時代だったとみるべきでしょう。太平洋戦争、敗戦後のドサクサ、あの時代と同様だったでしょうね。戦後の農地改革に匹敵する社会構造変化でした。

117、兄が生きているかもしれない。いや、きっと生きている。八重は永い眠りからようやく目覚めた。暗闇の遠くに見えるほのかな光を見つけ出した時のようなときめきに、身体が熱くなっていた。物憂い表情は消え、目が生き生きと輝き始めた。

覚馬生存のニュースが入ってから、八重の生活は一変します。会津若松の役所に情報を確かめてくれるように依頼しますが、いつの時代でもお役所はこの種の依頼を嫌がります。

なぜ嫌がるか。情報ルートが長くて複雑だからです。途中で何人もの人が介在しますから、情報が立ち消えたり、誤情報になったりするからです。これを解決するには、共通番号が不可欠ですね。国民番号制度がようやくできましたが、これで個人情報は透明になります。が、便利さの反面には、必ず悪用しようとする輩が出てきます。いつの世も、悪人とのイタチゴッコが続きます。

八重が、ようやく元気を取り戻します。半面、覚馬の妻・うらが沈んでいきます。

118、兄はまさしく生きている。しかも京の地で重職にある。奸族と言われる会津藩士が厚く遇されるには、よほどの才を認められたに違いない。明治という新しい時代になっても自分を貫き、生きる道を開いた覚馬に会いたいという思いが突き上げてきた。

待ちに待った情報が届きます。覚馬が京都で府知事の参与という立場にあるといいます。藩体制の頃なら家老職です。夢のような話に八重は有頂天になります。会津のジャンヌダルクが、いよいよ京の町に進出し、同志社の母、そして日本のナイチンゲールに向かって旅立ちます。

覚馬が認められたのは、薩摩藩に捕虜になっている間に書き記した「管見」という意見書にあります。ドラマでは西郷隆盛に目をかけられたとなっていますが、覚馬を見出し、厚遇したのは薩摩藩家老・小松帯刀です。小松は西郷、大久保の上司で、戊辰戦争中は京にあって三条、岩倉などと新政府の中核を担っていました。

小松からは罪人ながら客人扱いされていますから、覚馬は牢獄に放り込まれてはおらず、薩摩屋敷の中で座敷牢のような境遇でした。待遇も覚馬の希望通り、毎日酒一升と介添えの女を与えられていたといいますから、厚遇に違いありません。京都での愛人・時枝がその時の女でしょう。 

覚馬の「管見」と龍馬の「八策」、この辺りがベースとなって、岩倉・大久保の政策が作られていったとも言えます。ともに江戸、長崎で佐久間象山、勝海舟などと交流していますから、考え方は似ていたのでしょう。藩から軍事力を切り離す…天皇の軍隊にする…これが、明治新政府の最も多難で、かつ、最も重要な政策でした。薩摩も、長州も、自らの軍事力を放棄しなくてはなりません。西郷さんが「おいどんの仕事は終わったでごわす」と薩摩に帰ってしまったのは、実は、この大仕事から逃げ出したのではないかという説もあります。が、結局は呼び戻されて徴兵制を実行し、そしてまた、それに不満な武士たちに担がれて、西南戦争に引っ張り出されます。戊辰戦争から、征韓論、西南戦争までの西郷さんの心の軌跡…小説家の興味をひきますね。日本近代史の闇の部分です。上野公園に建つ、着流し姿の西郷さん…聞いても答えてはくれません。(笑)

119、鶴ヶ城が開城となってから、城中の藩兵およそ3000は猪苗代に、城外で戦ったおよそ1700は塩川にそれぞれ謹慎となった。彼らが信州松代真田家と、越後高田藩にお預けとなり、東京と高田へ出立したのは明治2年の正月であった。そして11月、幼君・容大(かたはる)が3万石を与えられ、南部斗南藩の県知事となると、藩士たちも下北の地に移っていった。藩士の子弟や妻女はそれに従い、会津を去った。

会津の戦後処理は、今までに見てきたとおりですが、罪人として処刑されたのは家老3人です。「家老三人を切腹にせよ」という指示でしたが、戦いの最中に切腹した神保内蔵助と田中土佐をそれに含めてもよいという寛大なものです。残る一人に選ばれたのが萱野権兵衛でした。

本来ならば西郷頼母が…というのが会津武士たちの思いで、萱野は救国の恩人、西郷は逃げ出した卑怯者という評価でしたね。ただ、西郷頼母は故郷を追い出され、あてもなく全国を放浪中で、この時は、北海道にいたようです。卑怯者と呼ばれるのも気の毒です。

会津藩士が向かった斗南藩とは下北半島のことです。下北半島には、今でも観光地・恐山と、かつての海軍基地・大泊と、大間のマグロと、風力発電と、原子力施設しかありませんね。どう見ても、現代の稲作技術をもってしても、3万石の米がとれる場所ではありません。ソバ、アワ、稗などの雑穀を含めて7千石が精いっぱいと言った土地でした。この彼らを救ったのが、白虎隊士を置き去りにした卑怯者と呼ばれた白虎隊長・日向内記です。会津・喜多方に残り、政府に見つからないよう闇ルートで斗南に食料を送り続けます。これが斗南に移住した、会津藩士の生命線でした。いわば裏組織、ヤクザ組織です。…が、駿河に流された旧幕臣を救ったのも、ヤクザの清水次郎長でしたね。現代では、こういう人たちに「ボランティア」という名前が付けられています。

120、あの籠城戦で自分は死んだものと考えてくれ……とうらはいう。とするならば城を出てから3年、うらの際立った変貌ぶりは、理解できないことはない。それは新しい生を拓くための血みどろの戦いであったに違いない。そして彼女は会津の土に生きることを決意したのだ。

せっかく、夫の覚馬が京都で生きているということが分かったのに、妻のうらが京都に行こうとしません。日に日に沈み込んでいきます。引用している福本武久の小説「会津おんな戦記」では上記のようにうらの心理分析をしていますが、そればかりではないように思います。

女の勘というか、覚馬が京に出てからの文のやり取りなどから、女の影に感づいていたのではないかと思います。盲目の覚馬が字を書けるはずはありません。そうすると…、誰かが代筆をします。その文字が女文字であったり、京言葉が混じったりしていれば、「!」{?}と感づきますよね。うらは覚馬の裏に見え隠れする女の影に怯えていたのではないでしょうか。会津の田舎者と京女、女の戦いに勝つ自信を持てずに、逃げ出したのではないかと思います。

単身赴任と離婚騒動…現代でもよくある話ですが、どうも…、そんな気がします。できうれば、転勤時は家族帯同が望ましいのですが、なかなかそうもいきません。こまめに電話やメールのやり取りが要りますね。 下衆(げす)の勘繰りかもしれませんけどね。