水の如く 32 蚊帳の外

文聞亭笑一

前回も書きましたが、司馬遼の「播磨灘物語」は山崎の合戦の後、光秀が命を絶つところで終わっています。吉川英治の「黒田如水」は、官兵衛が伊丹・有岡城から救出される場面で終わっています。官兵衛ものと言われる作品は、なぜか秀吉が天下をとる仕上げの部分、さらに、秀吉が暴走を始め、増上慢になっていく過程について官兵衛の役割に触れていません。

そこが、私にとっては…今回のドラマの面白さですね。興味の尽きぬところです。

官兵衛は関が原の戦まで、命の火を燃やし続けて戦っています。

官兵衛は「何のために戦ったのか」…これが見えてこないのが興味の地下水脈です。

山崎の合戦で、秀吉の天下が見えたのが官兵衛37歳の時でした。59歳で死ぬまでに22年もの時があります。

この間に幾多の事件があります。小牧長久手の戦、大阪築城、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵、秀吉の死、関が原…官兵衛はこのすべての事件に絡み、家康が征夷大将軍に任じられた翌年に死にます。

官兵衛はなんのために戦ったのか。何を目指したのか。何がしたかったのか。

昭和の歴史小説の両雄である吉川英治、司馬遼太郎は解を示しません。

今回、NHKは32話から先20話に渡って「官兵衛・その後」を追います。彼が何を考え、どう行動して、その結果がどうだったのか。私は大いに期待しながら視聴しようと思っています。「太閤記」や山岡荘八の「徳川家康」とは違う歴史観が見たいものです。

ここからは引用すべき記述がないので、箇条書き風になります。

125、清州会議

後継者を「会議」で決める。こんなことが本当にあったのか? 

戦国乱世の世にあって、信じられない光景です。力と力の対決、強いものが弱いものを淘汰するのが、戦国の掟でした。いかに織田家中の問題であったにしても…仲が良すぎますねぇ。平和に過ぎます。我々世代は民主主義、会議、多数決を是としてきた世代ですから違和感を覚えませんが、当時としては破天荒なやり方ではなかったかと思います。

これを仕掛けたのは誰か。会議という手段を仕掛けたのは誰か。

そこにキリシタン、伴天連の智慧と、京の公家衆の智慧を見ます。

秀吉の傘下にはキリシタン大名が多数います。代表的なのは高山右近ですが、九州の大友宗麟、宇喜多の家老・小西行長、そしてそのシンパである黒田官兵衛などです。民主主義という言葉はまだありませんが、それに近い概念は彼らの元に伝わっていたでしょう。

いや、民主主義というより「戦わず勝つ」という戦略は孫子以来の兵法なのです。

それに知恵を付けたのが近衛前久以下の公家衆ではなかったか……。

聖徳太子以来の「和を以て貴しとなす」伝統を思い起こさせ、「会議」という手段を教唆したと考えてみたい…と思います。

清州会議の主題は「筋目論」です。これに最も精通し、しかもその権威を握るのは朝廷です。これを動かして、筋書きを作ったのは誰か? 官兵衛ではないと思います。千利休、安国寺恵瓊などの、朝廷や宗教界と懇意なものでないとできない芸当だったと思いますね。そしてその調整に走ったのが石田三成、前田玄以など…後の奉行派と呼ばれる面々だったと思います。

この時点で…秀吉と官兵衛の間には亀裂が見え始めたのではなかったでしょうか。

126、小牧長久手の戦

秀吉は戦わずして政敵を倒す政治に舵を切ります。

先ず標的にしたのが信長の次男である信雄、そして3男の信孝。

秀吉がNO1として天下に君臨するためには、信長の権威、織田家の後継者イメージを、自分に集中させなくてはなりませんでした。その意味で息子たちは邪魔です。

まず、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家に同調した信孝を、消しにかかります。正統なる後継者「三法師」に対する謀反という罪を挙げて追い込みます。相当あくどい宣伝もしていますね。山﨑合戦で遅刻したこと、前線に出たが戦わず敗走したこと、賤ヶ岳では柴田に組して敵対したこと…、信長に対する孝心がない、三法師への忠心がない、領民の人気がない…などと、京や岐阜市中に噂をばらまきます。真綿で首を絞めて…消しました。

次男の信雄に対しても同様な虐めを始めます。信雄の家老たちを味方に引き入れて信孝同様に追い込もうとしました。が、信雄は政治力がない分だけ素直で、家康の元に駆け込みます。その結果始まったのが、小牧・長久手の戦でした。

この戦は持久戦になります。互いに睨み合いながら、裏では多数派工作を繰り広げます。とりわけ家康の動きが活発でした。雑賀一族や本願寺を動かし、長曾我部を誘い、北条を誘い、上杉や伊達まで反秀吉陣営に組み込もうとします。

それもあって、官兵衛は宇喜多、毛利対策に振り向けられて小牧には参陣していません。もうひとつ、この頃秀吉は大阪城を建設中でした。この城の縄張り(城郭設計)を官兵衛にさせていたのです。その意味では、秀吉は家康を舐めていた節もあります。

127、大阪城

大阪城を現代の地理感覚で見ると、その要害性が分かりません。当時の大阪湾は今よりも数km湾入していました。淀川が河口付近で幾筋にも分流して大阪湾に注ぎますが、大阪城は海と淀川の湿地帯につきだした上町台地(半島)にあります。南から北につきだした半島ですから三方は水(湿原)です。この立地は安土城によく似ていて、しかも安土城よりも規模が大きいですね。さらに目の前に広がる水面は湖ではなく海です。瀬戸内から太平洋、日本海に繋がる海の道が広がります。さらに、淀川の水路を辿れば京の都にも近いですね。信長の真似をする秀吉にとっては、政治をとる場所として絶好の立地条件でした。大阪は今でも水の都と呼ばれますが、秀吉が築城を始めた当時の淀川は、流れが無制御に分流していて、大雨が降れば一面が泥海と化すような湿地帯だったと思われます。船場などという地名は読んで字の如く港であったでしょう。

大阪築城とは、大阪の都市開発でもありました。先ずは淀川の制御からだったと思います。この工事の中核を担ったのが蜂須賀小六で、城郭建設を受け持ったのが官兵衛でしたね。ですからこの二人は建設工事に大童で、小牧・長久手には参戦している暇がなかったのです。

余談になりますが、21世紀の現代に生きる我々は、現在の海岸線を「昔からここまで陸地だった」と勘違いしやすいのですが、豊織期から江戸期以降の干拓の凄まじさは想像を絶するほどです。当時に環境訴訟など起こるはずもなく、干潟や湖沼、湿地帯は次々と埋め立てられます。蛇行していた川筋は直線化されて、川幅は半分以下になり、その両岸は農耕地になっていきます。戦国の終焉とは、高度成長期の幕開け、建設ラッシュの時代、バブルの時代の到来でもありました。

128、黒田シメオン

この頃、官兵衛はキリスト教に入信します。若いころから好奇心をもってキリスト教と接していたのですが、それは西洋文化への関心という程度で、信仰と言うほどの物ではなかったようです。

それが、この時期になってなぜ入信したのか。高山右近などとの付き合いで説得されたか、それともゆとりができて、若いころからの好奇心が再燃したか?

ゆとりができたのは事実です。中国攻めの時期は常時、秀吉の帷幕に詰めて軍事、内政、人事などの相談にあずかっていましたが、家康との決戦・小牧長久手以降は戦場に出ず、大阪築城にかかり切っていました。

清州会議以降、織田家の清算という政治課題について、秀吉が堀政秀、池田勝入、丹羽長秀、千利休などという織田家の同僚を相談相手にし、官兵衛を遠ざけていますね。

更に、賤ヶ岳で活躍した加藤虎之助(清正)、福島市松(正則)、片桐助作(且元)などの若手を抜擢し、組織の若返りと身内の強化を図り始めました。官兵衛もその意向を察して息子の長政を前面に出すようにして行っています。

黒田家の場合、祖父も若いうちから父に家督を譲り、父も早く引退して官兵衛に家督を譲りました。その伝統もあったかもしれません。官兵衛も長政に家督を譲る時期を見計らっていたのでしょう。

官兵衛のキリスト教入信も秀吉との距離を作る一因になりました。一夫一婦制のキリスト教の戒律と、手当たり次第に手を出す女好きの秀吉…趣味が合いませんねぇ(笑)

ともかく、秀吉から見たら煙たい存在の官兵衛、官兵衛から見たら自分の存在感が無くなっていく寂しさ、そんなものが二人の間の隙間風でしょう。そして二人の間に介在してくる千利休や安国寺恵瓊。人間関係が複雑に入り組んできます。