乱に咲く花 34 朕 思うに
文聞亭笑一
長州に新政権が誕生しました。高杉晋作が率いた奇兵隊のクーデターによる政権です。
が・・・この政権に「高杉晋作」の名がありません。先週放映された新体制の会議場面にも、晋作が登場していませんでしたね。彼は金毘羅詣でと称して四国に逃げたのです。
晋作は徹底した開国論者です。「開国して国力を強化し、しかる後に諸外国との対等な関係を作り上げる。そのためには近代兵器による軍備を強化する」というのが彼の変わらぬ意見で、後の富国強兵路線です。その同調者は井上聞多、伊藤俊輔の二人だけです。
この意見は…実は、幕府にもその意見の持ち主がいました。勝海舟です。
二人の共通点は、ともに外国を見てきたことです。高杉は上海で、勝はアメリカを見てきました。「百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず」という通り、夷敵というものを、西洋文明というものを、想像の世界で考えれば鬼畜の世界に見えます。だからこそ、京都朝廷、とりわけ孝明天皇などは「夷人は鬼である」との考えに凝り固まっていたのではないでしょうか。
左の、書きかけの絵は九州・壱岐島に伝わる「壱岐凧」ですが、孝明天皇が想像したのはこんな絵柄ではなかったでしょうか。
大きな口を開けた鬼が武将(将軍)に噛みついています。
凧の絵柄は鎌倉時代のもので、百合若大臣(大宰府長官)に斬られた鬼(朝鮮軍or蒙古軍)の大将が、首だけになっても噛みついてきたと言うものですが、それに類する恐ろしさ、おどろおどろした汚らわしさを感じていたものと思います。
美和の物語ではこの後、第二次長州征伐軍が編成されて長州に向かいます。その総司令官・幕府代表が老中・小笠原壱岐守で、壱岐への港町・唐津藩主です。
何となく「壱岐」が…面白い符合なので載せてみました(笑)
ついでに…余談ですが、唐津藩の藩主は添付の小説、「攘夷でござる」の松本藩主・松平但馬守の実兄に当たります。松本は山の藩なのに、海に関心があった一因かもしれません。
勝に奢った奇兵隊士たちは、手当たり次第に乱暴狼藉を働きだす。
晋作はこの時期、その後長州人の間で伝えられてきた名言を吐く。
「人間というのは、艱難はともにできる。しかし富貴はともにできない」
事をなすべく目標を持ち、それに向かって生死を誓いつつ突き進んでいる時は、どの人間の姿も美しい。が、ひとたび成功し、集団として目標を失ってしまえば、そのエネルギーは仲間同士の葛藤に向けられる
奇兵隊は士農工商のすべての階層からなる義勇軍です。司馬遼太郎は「革命軍」と位置付けますが、革命軍とするには少し無理がありますね。「攘夷」という思想を掲げますが、これは革命とは違います。従来の「鎖国」を守ろうという保守思想です。
形態として、結果として、士農工商の身分制度を破壊するものになった、ということでしょう。
そういう集団ですから、藩内抗争に勝った、百姓一揆が成功したというレベルで、「何でもあり」の占領軍に近い行動を始めます。乱暴狼藉の向かうところは椋梨藤太などの旧政権の縁者です。長州の官軍は後の戊辰戦争でも評判が悪かったのですが、軍律と言う点では無に等しかったようですね。目先の戦が頻発し、軍律など作り、教育する暇がなかったのでしょう。
4か国連合艦隊との戦い、蛤御門の変、太田・絵堂の戦と戦闘続きでした。しかも、この集団には京を追われた他国からの脱藩浪士が多数含まれています。彼らにとっては郷土愛すらありませんから「この際」とやりたい放題だったかもしれません。
晋作は、その軍の最高責任者です。智謀もありますから長州藩首相となるべきところですが、首相には松陰の師であった穏健な老人を立て、軍司令官は山県狂介に譲って、イギリス遊学をしようとします。勿論、開国のためです。
これが、奇兵隊に漏れます。逃げるしかありません。四国・金毘羅に逃げます。
逃亡資金を渡したのは井上聞多。彼は政権の財務大臣として金庫のカギを預かります。
高杉と常に連絡を取っていたのが伊藤俊輔。高杉、井上、伊藤・・・この三人しか開国派がいなかったのが当時の長州藩でした。
中岡は「長州と薩摩は似ている」という。だから両者を結びつけられると読んでいた。
共通しているのは
①関が原の西軍であり、幕府に対する怨念は消えがたいものを持っている
②密貿易により藩財政の立て直しに成功し、戦争ができる財政力がある
③江戸から遠い辺境にあり、幕府がこれを攻めるには膨大な軍費を必要とする
④両藩共に権力志向が強く、中央進出に意欲的である。
⑤学問に熱心で、人材が豊富である。 (半藤一利 維新史)
ドラマでは小田村伊之助が大宰府に向かいますが、暗躍していたのは土佐浪人・中岡慎太郎です。中岡は大田、絵堂の戦にも参加しますが、三条実美などの公家の護衛をして大宰府に移りました。土佐浪人が十数名、これに従ったようです。
薩長同盟の発案者は中岡慎太郎だと言われています。彼が、三条の側近である土方久元と情勢分析した記録が上記5項目ですね。私から見ると…②が最大の要素に見えます。
薩摩が幕府に対して強気なのは、やはり金があるからでしょう。いつでも軍艦で二千位の兵は出せるぞ…と示威しています。軍備も、長崎の英国商人グラバーから大量に購入しています。
そのこと自体が違法、密貿易なのですが、もはや長崎奉行の監督権は機能していなかったのでしょう。この当時、密貿易で懐を肥やしていたのは肥前・鍋島藩ですね。なにしろ長崎、平戸などは自分の領国のようなものです。しかも複雑な海岸線ですから幕府の目を逃れるのも簡単です。
遅れて密貿易を始めたのが土佐藩で、その役割を担ったのが坂本龍馬の海援隊です。
そしてこの頃、潜伏先から国許に戻って頭角を現してきたのが桂小五郎(木戸孝允)です。
幕府の方も大久保一翁、勝海舟などが復帰し「大政奉還」などの秘策を練り始めます。
新選組も近藤勇が旗本になり、肩で風を切って京の町をのし歩いています。
維新劇の主役が揃ってきました。
歴史の面白さは、場面、場面に適任者が現れることである。
中岡慎太郎は長州の桂小五郎と高杉晋作を比較して評している。
胆(度胸)あり、識(知識・見識)あり、思慮周到、廟堂の論に堪えるは桂なり。
識(知識・見識・胆識)あり、略(戦略思考)あり、変に臨んで迷わず、機を見て敏、気を以て人に勝つ者は高杉なり。 (半藤一利 維新史)
この見方が正しかったかどうかは別として、後世の歴史家、小説家はこのイメージで高杉と桂を描きます。「行動派、直感的、天才的軍略」というのが高杉像で、「慎重、熟慮、外交派」というのが桂像です。長嶋茂雄と王貞治みたいなものですかねぇ(笑)
いや、現代の長州人は安倍晋三と菅義偉になぞらえたいのかもしれません。
ともかく、両者のリーダシップは違いますが乱にあっては高杉、静にあっては桂・・・そういう違いが、この後の展開を長州が有利になるように導きます。
孝明天皇は脅迫を含めた慶喜の度重なる奏請におれて通商条約を認めた。
「御前会議にて議論は尽くされた。今は容易ならざる事態である。皇統を守るのが第一であり、朕の一部の義(外人嫌い)でこれを廃絶はできぬ。先祖に申し訳が立たぬ。
万民の塗炭の苦しみが眼前に迫り、見聞に忍びず、実に以て痛心である。
この上は一ツ橋申し出の通りに任せ、承認することにする」 (半藤一利 維新史)
今回のドラマでは幕府方が殆ど描かれませんが、幕府も長州の動きに手をこまねいていたわけではありません。ただ、長州以上に手を焼いていたのが天皇でした。
冒頭にも書いた通り、孝明天皇という人は生理的に外国人が嫌いという人だったらしく、幕府の鎖国政策を国是、祖法だと思っていた人のようです。外交を始めるということは「国体」に背くというほど頑固に思い込んでいたようで、この人を説得するために慶喜は「お許しが無くば、この場で切腹する!」とまで啖呵を切ったようです。
天皇がしぶしぶ条約を認めた勅語の意訳が上記引用部分です。
何となく、昭和天皇の「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」に似ていると思いませんか。
朝廷も、幕府も、ここまで追い込まれたのは外圧です。
神戸に、イギリス、フランス、オランダの三国の軍艦が錨をおろし、「神戸開港の約束履行」を迫りました。幕府にとっては長州征伐どころではありません。この軍鑑には、アメリカを含めた四国の公使が全員顔をそろえています。
「天皇が許さぬというのなら、我々が直談判する」と護衛の陸戦隊の兵員もそろえ、強硬に迫ります。まぁ、原爆を落とされたようなものでしょうか。
慶喜は「帝がそれほどまでに反対なら、自分でやったら…」と突き放すようなことも言ったようですね。これには天皇もお手上げで、しぶしぶ上記の勅語でした。朕の一部の義(外人嫌い)でと、こんな表現をするのは異例中の異例ですね。
玉音放送の原板の音声を聞き、映画『日本の一番長い日(半藤一利原作)』を見て、今年は戦争、交渉の終わりを迎える難しさをつくづく感じる夏でした。