次郎坊伝 35 進駐軍司令官

文聞亭笑一

先週の放送では氣賀の住民が強制的に城に集められ、兵士として使われるという場面をやっていました。

通常の場合こういうこと…強制収容は稀で、戦雲を感じたら住民たちはこぞって逃げ出します。山中や奥地に散ります。また、城に入った武将も籠城を考えますから戦意のない住民は「穀潰し」として歓迎しません。ただ、自発的に志願兵のような形で来た者や、入城してきた勢力に助けを求める者は入城させます。氣賀・堀川城の場合はどちらだったのでしょうか。

それまでの城主は瀬戸方久で、方久は早々に徳川にすり寄っていますから城は無血開城したはずなのですが、大沢方に乗っ取られたということは、それを手引きした者たちがいるということでしょう。

堀川城では近隣の土豪3人が指揮した徳川への反乱、抵抗運動が起きています。

首謀者・・・というか運動のリーダは3人。近隣の豪族といいますから、井伊谷3人衆同様に元々は井伊家の家臣というか、与力だった人たちだと思われます。小野但馬について徳川と戦った者たちかもしれません。新田友作、尾藤主膳、山村修理と記録は伝えます。

それぞれが手勢を率いて入城し、彼らに同調する者で総勢1700人だったといいますから大規模な勢力になります。この時の家康軍の総勢が8千です。全軍で当たれば攻略はできますが、この時家康軍の主力は今川氏真が逃げ込んだ掛川城を包囲しています。曳馬(浜松)城にいたのはせいぜい3千程度でしょう。これも堀江城の大沢元胤を攻めていますから、堀川城にまで手が回らなかったと思われます。

前回の放送場面で終わりなのか、それともその後に本格戦闘があったのか・・・。どう描くのでしょう?

いずれにせよ反乱軍の抵抗は厳しく、家康は徹底的に皆殺し作戦を指揮しています。これを指揮したのが家康本人か、それとも攻城司令官であった酒井忠次か、定かにはわかりません。

酒井忠次

石川数正と並んで、徳川家草創時代からの家臣の一人です。

徳川家(松平家)は家康の祖父・清康の時代に三河を統一して国主の座を手に入れていますが、その時代に最後まで抵抗したのが尾張との境に拠点のあった酒井家です。織田信秀(信長の父)と連携したり、水野など尾張との境の豪族と連携したりして清康を悩ませますが、最後は提携して三河松平の傘下に入ります。酒井忠次も、人質代わりに家康の父・広忠の小姓になりました。

家康が今川に人質として送られる際に、松平の代表家臣(責任者)として駿府に随行します。

家康は6歳でしたが、この時の忠次は20歳。大人です。家康の面倒を見るというより、松平家の代表駐在員として、今川家の意向を本国・三河に伝える外交官の役割でしょう。

家康の日常の面倒を見たのは石川数正と鳥居元忠の二人で、平岩親吉などが遊び相手として付き添っています。駿河時代は家康とそれほど親しくないというか、親代わりの小五月蠅い存在だったでしょうね。家康にとっては石川、鳥居が兄貴分です。

酒井忠次は次郎坊物語の当時、40代の働き盛りです。石川数正と並んで新生徳川家の家老職にあります。軍事能力にかけては徳川軍団の中でもずば抜けた力量を持ち、三河平定、一向宗制圧、などで目覚ましい働きをします。家康軍団は軍の構成を二つの大隊に分け、東三河の旗頭を酒井忠次、西三河の旗頭を石川家成としています。当時、忠次は三河の吉田城(豊橋)を預かっていましたから、遠江進出では先鋒の役割を担います。井伊谷、堀川、堀江、曳馬、掛川攻略の軍司令官ですね。

この人は独断専行が強い人だったとも言われています。家康より16歳も年上ですから、しかも、駿府では親代わりに面倒を見てきましたから、家康を子ども扱いするところがありました。特に、軍事、外交では家康の意見も聞かずに処理してしまうことがあったようです。武田との今川領分割協定などは、家康の慎重論を叱りつけたりもしたようです。

テレビでは家康を優柔不断で腰抜け城主のように描きますが、酒井、石川の両家老の意見には逆らえなかったようで、「目の上のたん瘤」といった存在でしたね。家康が戦国武将として頭角を現すのは、どうやら本多忠勝、榊原康政、井伊直政など、若手の台頭を待ってからのようでもあります。また、酒井忠次が信長の策略にかかった「信康切腹事件」石川数正が秀吉の調略にかかった「数正出奔事件」があって、目の上のたん瘤が消えてからかもしれません。

遠州進出の頃は酒井、石川のほかにも本多作左、大久保忠世などといった先輩が数多(あまた)いて、政略も、軍議も、彼らの意見を聞きながらの集団指導体制だったようです。姑、小姑に囲まれて、左右に振り回されて、狸親父の片鱗も発揮できなかったのでしょう。

ともかく、今回の物語では酒井忠次を悪役として描くようですね。

信長の計略にかかったとはいえ、家康の正妻・瀬名と長男・信康を死に追い込んでしまう役回りとして描くのでしょう。次郎坊と瀬名は同じ井伊の血を引く親族関係ですから、この事件は次郎坊にとっても痛恨の事件だったと思います。

後の話ですが、家康が関東に移封された時、徳川四天王と呼ばれたうちの井伊直政、本多忠勝、榊原康政にはそれぞれ10万石が与えられましたが、酒井忠次が隠居して跡を継いだ酒井家次には3万石しか与えませんでした。既に隠居していましたが忠次がそれに文句を言うと、家康は「そなたも・・・やはり子は可愛いのか」と痛烈な皮肉で清康切腹事件をなじったと言われています。

酒井忠次の有名なエピソードに松竹問答があります。今川領分割侵攻が完了した翌年、信玄は家康宛に正月の句を送りつけます。 松枯れて 竹類なき(たけたぐひなき) 明日かな

松は松平、家康を指します。竹は武田を掛けてあります。いわば宣戦布告状、降伏勧告のようなものです。これに家次は「ぐ」の濁点を消し、「た」と「ひ」に濁点をうち、

松枯れて 武田首なき 明日かな ・・・とやって、徳川勢の気勢を盛上げたと言われています。

余談になりますが、先日、封切り早々の映画「関が原」を見てきました。

司馬遼太郎の小説を下敷きにしていますから、大河以上に壮大です。関が原の合戦シーンなどは実に迫力がありましたねぇ。映画とテレビの違い…と言えばそれまでですが、最近のNHKは経費削減が徹底し過ぎだと思います。

京の三条河原で秀次の妻妾が集団処刑される場面で始まって、同じ場所で三成が処刑される場面までです。凄くたくさんの事件を2時間にまとめますから、テンポが早く、武将名やその人の経歴など、ある程度の予備知識がないとウロウロしてしまうでしょうね。その意味では少しばかりせわしない印象も受けました。ただ、時間的には限界でしょうね。トイレの早い人は見難いのを我慢して入り口近くに席を取ることをお勧めします(笑) また、開演前のビールもほどほどに…。

ともかく今年の大河は「ゆっくり、じっくり」と井伊谷の動きを追っていきます。

予告編でもあまり大きな変化はないようで、書くことがなくて困っております(笑)