どうなる家康 第27回 淀の鯉

作 文聞亭笑一

先週の最後は「信長を殺る」と・・・家康が部下達に伝える場面で終わりました。

こんなに早い時点で「信長を見切る・決別する」という仮説は初めてですね。

今までのどの歴史小説にもありません。

かといって・・・「そんなことはない」と否定する材料もありません。

今回の小沢脚本はそういう歴史学の弱みを衝いて、大いなるデタラメ、いや、飛んで、飛んで、飛んだ発想を披露してくれます。

歴史物語と言うより時代小説の風情があります。

⇒歴史小説とは、歴史的事実を重視し、その行間を小説家の推理で埋める

⇒時代小説とは、時代背景を借りて、その中で自由に物語を創作する

本能寺の変は日本史上でも有数のミステリーとして、多くの小説家が様々な推理を働かせます。

この当時の政治家達が「信長」という専制君主をどう見ていたのか? 

「ハイル・ヒトラー」などと信じ切っていたものは皆無でしょうね。

警戒すべき悪魔でしょう。

敢えて言えば、森蘭丸などの側近だけが「神君」と信じ切っていたと思います。

が、しかし、柴田勝家にせよ、羽柴秀吉、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益など部下達は戦々恐々でしょう。

信長のやっていたのは恐怖政治ですから・・・これから逃れる手段は追従か、引退か、反逆か、3卓です。

現代でこれに近いのがクレムリンでしょうか?

平壌?

北京?

朝廷と信長との確執

本能寺の変が起きる天正十年、安土の信長と朝廷との間では壮絶なる政治的掛け引きが行われていました。

時間軸を追ってみます。

朝廷から信長へ 左大臣就任を要請→信長は拒否

信長から朝廷へ 正親町天皇の退位、譲位を提案→朝廷は無視

朝廷から信長へ 信長に征夷大将軍を与える内示→信長は無視

信長から朝廷へ 暦を尾張歴または三島歴に変更提案→朝廷は拒否

信長から朝廷へ 安土城に御所の建設提案→親王(皇太子)は乗り気

武田攻めと並行して、信長と朝廷の間では上記のようなやりとりがなされています。

この交渉ごともあって・・・関白・近衛前久が武田攻めに同行しています。

朝廷と織田政権の「国体」を巡る政治折衝です。

武家政権と朝廷は鎌倉幕府以来、帝政実力主義というのか・・・武家政権が「天皇の元で政治を行う」という征夷大将軍による幕府という政治形態をとってきました。

幕府とは・・・占領軍総司令部GHQと言う組織で、戦時下の暫定組織です。

天皇の命令により、征夷大将軍が逆賊を平らげ、臨時政府を設立する ・・・これが幕府です。

頼朝の鎌倉幕府も、足利尊氏の室町幕府も、そして家康の作った江戸幕府も、みんな臨時政府です。

それが600年間の中世・武士の世を作ってきました。

あくまでも政権は朝廷にあって、朝廷の委託で政権・幕府が実務を執り行う・・・。

これに「No!!」を突きつけたのが信長です。天皇制否定・・・信長による帝政を企画します。

信長の富士遊覧

 ケチと言われる家康の一世一代の大接待ですが、今回のテレビでは明智光秀が同行していました。

これは・・・かなり確率の低い(10%以下)推理ですね。

光秀が、その失言によって信長から折檻されたと言われるのは諏訪でのこと・・・とする記述が殆どで、諏訪から国許へと返されたと言われます。

また、家康の富士遊覧接待に「まろも・・・」と願い出た近衛前久は

「近衛なんぞは木曽を通って帰れ」と一蹴されたという記録が一般的です。

関白を「近衛」と呼び捨てにした発言は、当時の人々の常識から驚きを以て受け止められたようで、幾つもの記録に載っています。

信長が朝廷を尊重していなかった現れでしょうね。

したり顔をして信長の逆鱗に触れた明智光秀

信長から「近衛なんぞ」と見下された近衛前久

この二人が伊那から木曽、中山道を京までを辿っていきます。

接点が無かったはずはないと思いますし、木曽を抜ければ美濃・明智の庄です。

二人の間で何某かの談合が・・・と、幾つかの本能寺物語に描かれますね。

私もこの二人が本能寺暗殺事件の主犯、実行犯と見ます。

淀の鯉

 信長の安土招待に応じるか否か・・・議論があったかに伝える史書が多いのですが、議論の余地などありません。

断る理由がないのです。断ると言うことは、宣戦布告にも近いですから・・・富士遊覧が台無しになってしまいます。

ただ、暗殺されるリスク・・・これは想定しましたね。

信長が関東制圧、すなわち小田原攻めに向けて家康を味方として使うのか、それとも小田原と同盟を結んだ家康を邪魔と考えるか、このあたりが読めません。

ですから前回の最後の場面で、「信長を殺す」と宣言したのは「いざとなったら玉砕」という覚悟を示したのでしょう。

事実、安土には主立った家臣を全員連れて行きます。

安土でその全員が粛正されてしまえば、徳川家は骨抜きです。

指揮を執れるものがいません。

さて、安土での接待ですが供応役は明智光秀です。

織田軍団で近畿に残っているものは明智しかいませんから、その彼を供応役に選ぶのは家康以下、徳川家を重視している・・・という姿勢を示す意味で当然でしょうね。

光秀は、家康が行ったという富士遊覧の接待の情報を逐一聞き取り、それに負けぬ接待を考えます。

諏訪での失態を回復する意味でも力が入ったでしょう。

富士遊覧で家康が用意した料理は山海の珍味、それも自然のままの野趣あふれる味わいで、これが信長の趣味に合いました。

光秀はそれに対抗すべく「京の味・千年の珍味」を演出しようとしたのではないでしょうか。

同行した本多忠勝や、榊原康政などの語り伝えに「あの鮒寿司とか言うもんは敵わぬ。

無理して食ったが二度とゴメンだ」などとあります。

鱧やスッポン、スグキなどの漬け物も含めて京風の味を強調したのでしょう。

その一つが「淀の鯉」 鯉料理は岡崎でも浜松でもあると思いますが、京風の味付けに家康以下が違和感を覚え、それが腐敗事件・・・明智の失策に繋がってしまったと思います。

もしかして・・「鯉の洗い・酢味噌和え」だったとしたら、味噌和えでしか食べたことのない田舎者には「酸い=腐敗」と箸が止まった可能性があります。

鮒寿司が・・・何番目に出てきたかも興味ありますね。

それと、光秀に「八丈のくさや」を食わせてみたら何というか、興味あるところです。