雪花の如く
第1編 戦国資本主義
文聞亭笑一作
戦国時代とは・・・価値観が乱れに乱れ、日本が日本ではなかった時代です。
統一国家であった室町幕府の統制が全く利かなくなり、各地に私的権力者が現れて村社会を作り、その中での自給自足をしていた時代です。自給自足といっても地方にないものもありましたから、商業は盛んに行われていました。馬や牛の背に乗せた物資が街道を行き交いますが、その安全は全く保障されていません。商人といえども自衛警備隊を持たないと流通が成り立たないのです。
これらの商人を保護し、流通の安全を守る役割を持っていたのが武士階級です。
勿論、商人たちだけではなくムラに住む住人たちの安全を守るのが第一義ですが、百姓たちは自衛力を持っていましたから、よほどのことがない限り武士の世話にはなりません。
一番、安全を保障してほしいと願っていたのが流通に携わる商人たちでした。保証を得るためにはお金が要ります。運上金という税金を各地の支配者に支払わなくてはなりません。
仮に、灘の酒を現在の東海道線に沿って鎌倉まで輸送すると考えて見ましょう。
まずは近畿圏を通り過ぎるのに三好家に税を払います。滋賀県に入れば六角、浅井、岐阜に入って斉藤、愛知県に入れば織田、松平、更に静岡県に入って今川、神奈川県で北条と8回も税金を取られます。合計8回、何とまぁ・・・。
それに輸送コストが乗りますから原価の数倍、いや数十倍の値段になってしまいます。
それでも、必要なものは運ばれていきます。多くは海上輸送の方法をとりました。海の上にも海賊がいて領海権を主張し、税金を取られますが、こちらのほうがまだ回数が少ないですね。大阪湾から伊勢に出るのに九鬼水軍に1回、そこからは今川水軍と、相模水軍だけですから3回で済みます。流通スピードも速いので商業の中心地は海寄りになります。
博多にしても、堺にしても、このころの商業都市のほとんどは海に面しています。
更に内陸に向けては河川を使います。大阪・京都間の淀川水運は有名ですが、同じような水運がいたるところに発達していました。野武士として太閤記に出てくる蜂須賀小六などは木曽川水運の親玉です。関が原の緒戦に伏見城で壮絶な討ち死にをする鳥居元忠も三河・矢作川水運の元締です。彼らのことを川筋衆などと呼びますが、戦国にあっては商業資本と連携した大きな勢力の一つでした。今回のNHK大河ドラマの主役、直江兼続の生い立ちも、もともと信濃川水運を支配してきた一族の流れです。
戦国時代を考えるとき、なんとなく米中心経済を想定してしまいますが、それは後の江戸時代の印象が強すぎるためで、実は、商業資本が活躍した時代、資本主義の時代だったのではないかと思います。流通を円滑に行うためには小国の群立は邪魔です。より大きな勢力圏があるほうが都合がよいのです。戦国末期、小国が併呑されて群雄が並び立ち、最後には天下統一に向かうのは必然の流れでもありました。現代でもそうですよね。地球の裏側では、ヨーロッパが統合されてユーロ圏が出来上がっています。「国」という単位が資本主義経済・流通の邪魔になるのです。
第一回目でもありますので、今回は目次代わりに兼続の年譜を追ってみましょう。(童門冬二「直江兼続」より)
西暦 |
直江兼続年譜 |
日本国内の主だった事件 |
1560 |
魚沼郡六日町にて生まれる |
桶狭間の戦い、石田三成生まれる |
1561 |
長尾景虎、上杉の名跡を継ぐ |
川中島の決戦、信玄・謙信一騎打ち |
1564 |
上杉景勝の父・暗殺される |
信長・家康の同盟 |
1570 |
上杉・北条の同盟なる |
信長上洛 |
1573 |
|
武田信玄・死去 |
1578 |
上杉謙信・死去 |
長篠の合戦 武田軍敗れる |
1579 |
御舘の乱 景勝が後継者に |
秀吉・中国攻め開始 |
1582 |
魚津落城 |
本能寺の変、山崎の合戦 |
1583 |
|
秀吉、柴田勝家を倒し、信長の後継者 |
1585 |
落水の会見 |
秀吉、関白になる |
1588 |
景勝、兼続上洛 |
家康上洛し、秀吉の天下統一なる |
1590 |
小田原の陣に参加 |
小田原が落城し徳川が関東に移封 |
1592 |
朝鮮へ渡る |
文禄の役・朝鮮出兵 |
1598 |
上杉家が会津へ移封される |
秀吉死去 |
1600 |
家康に「直江状」を叩きつける |
関が原の合戦 |
1601 |
米沢30万石に移封 |
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1614 |
大阪へ出陣 |
大阪冬の陣 |
1619 |
兼続死去 60歳 |
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なんとなく篤姫の二番煎じですが・・・兼続と盟友・石田三成は同じ年の生まれです。(笑)
上杉謙信という宗教家?に近い人に育てられた直江兼続と、秀吉という商人の親玉みたいな人に育てられた石田三成ですが、落水の会見以来、意気投合します。共通点は商業資本の動きに幼いころから親しんでいたことでしょうか。
この二人が家康を徹底的に嫌い関が原の合戦を起こしたのですが、見方を変えれば・・・
農本主義と資本主義の争いだったように思います。鎖国と貿易立国の政策論争といえるかもしれません。結果はご存知の通りで250年間に渡る鎖国の時代になりました。
士農工商の時代です。
支配者である「士」を最上位に持ってきて、敵対した豊臣政権・商業主義政権を最下位に持ってくるあたりに家康の意図があります。商業主義、資本主義では必ず争いごとが起こり、戦争が絶えないのだと考えたのでしょう。特に海外との貿易が盛んになれば、朝鮮の役と同じことが起こるのだと考えたかもしれません。
物語の時代背景を、我流にて解釈してみました。
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