雪花の如く
第18編 都の風向き
文聞亭笑一作
信長が倒れて3ヶ月の間に、大きく戦国地図が塗り替えられました。「織田」という色が消えて、羽柴、柴田、徳川に色分けされ、織田勢力の周辺は、境を接する大名たちに蚕食されてしまいます。統一に向かっていた機運は、再び戦国の世に逆戻りをしかけていますが、そうはなりませんでした。
それは、信長によって発展した商工業が、分裂に歯止めをかけたからのです。
産業は規模の拡大によって発展します。信長によってもたらされた全国区の商業圏は、流通に携わる者たちにとっても、工業に携わるものたちにとっても、莫大な利益を与えてくれていたのです。
信長は「狂信的殺人者」の側面もありますが、ヨーロッパ的・市民革命の英雄でもあったのです。商工業発展のスポンサーでもありました。
堺を中心とする商工業者たちは、信長の後継者を、自分たちの価値基準で選んでいました。
その基準によって、お金と物資が流れます。
後継候補者である明智、柴田、羽柴、徳川、毛利を、それなりに秤にかけていたのです。
この点では、京都の公家社会も同様で、5人の後継候補者を天秤にかけていました。
その結果、京の公家社会が仕組んだ陰謀こそが、本能寺の変なのです。
信長が京都から三好3兄弟を追い出し、将軍義昭を迎えて、幕府を再興したところまでは大歓迎だったのですが、信長が朝廷を軽視し、改革を始めてからは戦々兢々でした。
「このままでは朝廷は飾り物として神主同様に扱われてしまう。上級公家は残れても、中以下の公家は失業し、路頭に迷うことになる。天皇も、信長に支配される」
と、猛烈な危機意識を感じていたのです。
「信長を倒さなくてはならない」と、陰謀を仕掛けたのは前・関白の近衛前久でした。
まずは、謙信、信玄、毛利、本願寺を嗾(けしか)けて信長包囲網を形成しますが、失敗します。
そして、今度は織田家臣団を嗾け、その誘いに乗ったのが光秀だったのではないでしょうか。「天皇の綸旨を出してやるから信長を殺せ」くらいな、誘いがあったと思われます。
公家社会が選んだ後継者は光秀・細川のコンビだったと思います。
細川幽斎は天皇の歌の先生でもありましたし、公家社会には人気が高かったのです。
一方、商工業者の選んだ後継者は圧倒的に秀吉でしたね。候補者の中で金銭感覚に優れていたのは秀吉くらいなもので、柴田は軍人タイプ、家康は百姓タイプですから期待できません。
彼ら、商人がどの勢力へ鉛と煙硝をまわすか…、それで、軍事力に大差が出ます。
煙硝(塩硝=硝石)は火薬の材料で、当時は希少品です。鉄砲を揃えても、弾薬がなければ戦力になりませんからね。
兵隊の人数よりも、鉄砲の数と、鉛の玉と、煙硝の量が勝負を決めます。鉛と煙硝は、そのほとんどが輸入品でした。応援するほうには安く売る、応援しないほうには倍、3倍の値段で売る、それが彼らの政治です、戦略です。
太平洋戦争では、日本軍も石油が枯渇して敗れたのです。
ジャワと、ボルネオからの輸送ルートを失ったとき、日本の敗戦は確定していましたね。
44、秀吉は明智光秀に決戦を挑むべく、軍勢を東上させた。
戦の神は常に、時の勢いをつかんだほうに味方する。
前号で、ちょっと先を急ぎすぎましたので、時計の針を戻します。
山崎の合戦について触れておきましょう。
山崎、京都盆地の南の外れです。狭い谷間を淀川の流れがゆったりと弧を描きます。
激戦地になった天王山から眺めれば、対岸の洞ヶ峠との間にはかなり距離がありますが、数万の軍勢が激突するには狭い隘路です。
西から来る敵を食い止めようとしたら、守る場所はここしかありません。明智光秀が京都と朝廷に固執する限り、好むと好まざるとにかかわりなく、戦場はここでしかありえません。京都を捨てれば、ただの逆賊です。
後に、大阪冬、夏の陣で真田幸村、後藤又兵衛が「徳川を破るのはここしかない」と主張したのも、山崎の対岸である宇治、岩清水八幡周辺です。
光秀にとって、天皇の綸旨こそが最大の頼りだったのですが、秀吉の進軍の速さと、軍勢の多さに恐れをなした公家たちが、約束を裏切ります。綸旨は出ませんでした。
天皇の綸旨さえ出ていれば、光秀は「官軍」になります。大義といって、これ以上のものはありません。光秀が京都を守るのに固執したのも、官軍でありたかったからです。
ぎりぎりまで待っていた分、明らかに立ち合い負けです。洞ヶ峠で日和見をしていた筒井順慶は、綸旨さえ出れば、明智軍として秀吉の横腹を衝いたでしょう。戦いの帰趨はどうなったか分かりませんでした。
戦いは、始まる前から結果が見えていました。「義」という点では、綸旨が出ない以上、「主君の敵討ち」を標榜する秀吉にあります。兵力でも倍の差があります。その上、物資は堺からふんだんに供給を受けた秀吉と、僅かな在庫しかない光秀では比べ物になりません。
山崎の合戦は、京都朝廷に裏切られた光秀の自決、玉砕の場だったのです。
45、危機に際し、捨て身の賭けをして、自ら局面を開いた秀吉と、逡巡の中で動かなかった勝家。この差は、天と地ほども大きい。
「いかがなさいました」
その声に振り返ると、白く冴えた月明かりの中に新妻のお船がいた。
「いつかおれも…」
「おやりなされ。いつか、そのときが参りましょう」
山崎の次は賤ケ岳です。織田家の跡目争いに名をかりた権力争いですね。信長の息子たちは飾り物で、秀吉か、勝家かという政権争いそのものです。
秀吉は何度も言うとおり、自由貿易を主張する商工業資本を背景に持ちます。
勝家は、伝統的権威を重んじる保守派の代表です。農業を産業の中心に据えています。
その意味では家康も同じ立場だったはずですが、柴田の加勢には行っていません。
なぜでしょうか。
ここらあたりが、狸親父の狸といわれるゆえんでしょうね。次の次を狙っていたのではないでしょうか。柴田が勝とうが羽柴が勝とうが、ともに疲弊するであろうと高をくくり、その間に自己の勢力を拡大しようと、東国を固めていたのです。家康の望みとしては、柴田が勝ってくれたほうがやりやすかったでしょうね。
柴田勝家の押す3男の信孝と、自分が押す2男の信雄に兄弟喧嘩をさせて、その隙に政権を奪い取ってしまおうと考えていたのではないでしょうか。
同じストーリで秀吉との間で、小牧・長久手の合戦をしますが、柴田勝家とでも同じあたりで合戦をしていたでしょう。
秀吉と勝家…この差は、天と地ほども大きい
このあたりの決断、まさに人生の転機ですが、「おやりなさい」という戦国時代の女性は強かったですねぇ。現代の女性も強いですが、夫の仕事の中に自分を同化させて生きるというあたりが現代との違いでしょうか。
現代は「夫の稼ぎが悪いから私が稼ぐ」という共働き発想が主流ですが、「夫を働かせてより多くの収入を稼がせる」という片働き発想が戦国の妻たちです。
直江の家では、中央の情報は兼続が集め、領国の情報はお船が集めるというように、役割分担をしていたようです。
46、「今は広く、天下を考えなくてはならぬ。信長の死によって世は大きく変わった。
この流れの中で、上杉家がいかに生き残っていくか、上方のみならず、東国の情勢もよくよく見定めて、外交の方針を決定せねばならぬ」
中央政界の激変に、越後は遠すぎました。3日から1週間遅れで情報が入ってきます。
兼続とて、中央には多くの諜報要員を派遣していたのですが、忍者の足がいかに速くとも、京都・直江津間は遠すぎます。
しかも、陸路には柴田勝家、佐々成政、前田利家などがいますから、最短距離を駆けてくるわけには行かないのです。
秀吉から同盟の使者が来ます。これに対してどう答えるかが、まずは当面の課題です。
秀吉の狙いは、文面とはかかわりなく「勝家の背後を突いてくれ」というものですが、どちらが勝つかは、情報がありませんから分かりません。
目先のことを考えれば、「越中を返せば」と勝家に条件をつけて支援するほうが実利を得られます。応援すると言って大軍で越中に進駐し、富山城に居座ってしまえば、もともと自分の領地でしたから、取り返すのは簡単でした。
あえてそれをせず、どちらの係争地でもない川中島に出兵したのは、日和見です。
伊達の動き、北条の動き、佐竹の動き、こちらも目が放せないのです。
特に伊達政宗は、越後との周辺を盛んに荒らしまわっていました。虎視眈々…です。
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