雪花の如く
第16編 人間五十年
文聞亭笑一作
信長包囲網にかかった上杉が、防衛網を張るためには、地の利を生かすしかありません。
越後国内に侵入を許したら、数の力で押し切られてしまいます。武田と同じ運命です。
北陸道を進んでくる西からの敵を防ぐには、親(おや)不知(しらず)の天険を利用します。日本アルプスがそのまま日本海に突っ込んだような地形ですから、山越えは険阻な道です。大軍の移動には不向きです。
したがって、干潮の時期をみはからって、海岸から進入するしかありませんが、これとて、大軍の移動には不向きです。そうなれば、舟を雇って、海岸からの上陸作戦を敢行するしかありません。越中の港町、魚津の攻防は、舟をめぐる争いです。
信濃からの道、これが一番防衛しにくい弱点です。敵の本拠地・川中島の海津城が近い上に、北国街道という幹線道路が整備されていて、軍の移動がしやすいのです。
謙信の時代に、5度にわたる川中島合戦のために拡張した道が、攻撃される立場になると裏目に出ます。この道を、主力部隊で攻められたら、防ぎようがありません。
上州からは三国峠越えの道になります。こちらも、謙信の度重なる関東遠征で、道路は整備されていますが、信濃からの道に比べれば標高差が大きく、曲がりくねった道だけに、待ち伏せがしやすい環境にありました。
景勝が頼りにするものは「地の利」と「天からの雪」しかありません。暖地に育った織田の精鋭部隊も、雪と寒さには不慣れです。粘って冬を待つ…これが基本戦略です。ナポレオンの大軍を迎え撃ったロシアの戦略と同じことです。最後の最後は、春日山に籠城して冬将軍の援軍を待つ、それしかありません。
37、5月27日夜半、上杉軍は天神山の陣地から撤退を始めた。織田軍に気づかれぬよう、篝(かがり)火(び)を焚いたままにし、山中の至る所に幟(のぼり)を残した。
軍勢は夜の北陸道を、東へひた走った。
魚津城を失うということは、魚津から直江津への海の道を、敵に渡すことを意味します。
親不知の天険を避けて、舟による上陸作戦を許してしまいます。新潟県の日本海岸は日本海特有の岩場ばかりですが、それでも糸魚川や直江津の港のほかに、能生海岸のような遠浅の海岸があります。上陸地点はいくらでもあると考えなくてはいけません。
が、それ以上に危険なのは信濃からの道です。海津に集結していた森長可の軍が北国街道を急襲し、高田に現れたとの報告が飛び込んできました。春日山とは目と鼻の先です。
春日山城を奪われたら、帰るところをなくしてしまいます。撤退、転進して森軍と対決するしかありません。天の時、冬将軍を待つにしても春日山城がなければ、立場は逆になります。雪の中をさまよい、餓死するのは上杉になってしまうのです。
しかも、まだ夏の初め、半年間も耐え切れません。北へ逃げても、新潟以北には反乱軍の新発田重家が待ち構えているのです。
目の前の魚津を見捨てても、春日山城は、なんとしてでも確保しなくてはなりません。
そこへ、吉報がはいります。
三国峠を越えようとした滝川一益の軍に、上田衆と民兵からなる部隊が、ゲリラ的奇襲をかけて散々にやっつけたという報告です。大将の滝川一益までもが負傷し、前橋に引き上げてしまうという大戦果です。
この情報は当然、上杉ばかりではなく、森軍にも入ります。共同作戦で、挟み撃ちにしようと相談していた一方が撤退してしまっては、高田まで出てきた意味がありません。森軍は急遽撤退します。一目散に海津城に逃げ帰ります。
織田軍団にありながら、森と滝川の軍がなぜ弱いのか。なぜ、逃げるのかですが、森の軍勢は、この間までは武田の軍勢です。
真田昌幸なども武田から織田に転職したばかりで、忠誠心などは全くありません。そのほかの転職組みとて同様で、上杉の怖さは川中島で散々味わっています。トラウマがあるんですね。上杉本隊来るの報に、我先に逃げ出してしまいます。
滝川軍も同じで、上州の寄せ集め部隊です。上杉から武田へ、武田から織田へと、大将は入れ替わっていますが、もともとは上杉の同族なのです。やる気のないことはなはだしい軍勢といえます。
まして、滝川一益が人事管理の苦手な戦争技術屋ですからなおさらです。忠誠心や、目的意識など皆無ですから、民兵のゲリラ相手ですら、逃げ出してしまうのです。
更に言えば、信長の評判が悪すぎましたね。武田の残党に対する過酷なまでの制裁が、心情的に信長嫌いを助長し、やる気を失わせていました。強権による征服的支配では、人は従ってきません。
景勝は、何とか、当面の危機を脱します。
38、「お疲れでございましょう。隣の間に、お床が述べてございます」
口にしてから、お船がはっとしたように顔を赤らめた。兼続も、赤くなった。形の上では夫婦だが、二人はまだ、真実の夫婦にはなっていなかった。
兼続とお船、結婚はしましたが、手続き上の夫婦です。婚姻届は出しましたが、亭主は春日山で政務に没頭し、妻は与板で領内の仕置きをします。妻というよりは城代、代官といったところですね。三国峠での滝川軍撃退作戦の実質的な指揮を取ったり、財政を見たりと、なまじっかな男以上の働きをしています。
戦国時代は女が強かった時代です。現代の家庭と良く似ています。
山内一豊の妻・千代、利家の妻・まつ、秀吉の妻・ねね、…、枚挙に暇がありません。
「女房が強すぎて・・・」と愚痴など言っている暇はありませんよ。現代も戦国時代と良く似た時代ですからね。経済論理は戦国そのものなのです。規制緩和、自由経済とは戦国経済なのです。民営化というのも同じことです。
しかし、女性読者の皆さん。だから、と威張ってはいけません。戦国の女傑たちは「蓄財」という点で、がっちりと亭主を支えました。威張って浪費していたのは淀君だけです(笑)
39、魚津城に明智光秀からの密使が来たという。
「なにかあったか」不吉な予感を覚えながら、兼続は書状を開いた。
「ご当方へ無二のご馳走を申し上げるべきの由」とある。
無二の馳走とは…何をさすのか?
魚津城の攻防戦は、なんとも皮肉な結末を見ます。
信長が本能寺で明智光秀の襲撃を受けて暗殺されたのが6月1日ですが、光秀から魚津に密使がやってきたのも6月1日です。 情報化社会の現代なら、地球の裏側の事件でも、
1時間もしないうちに世界中の人の知るところとなりますが、当時の情報スピードでは、速報でも2−3日掛かります。
光秀は、信長を倒した後の敵は、重臣No1である柴田勝家が当面の敵になるだろうと読んでいました。ですから、上杉に「もうしばらく頑張れよ。俺が天下を取るから、柴田を挟み撃ちにしよう」と呼びかけてきたのです。無二のご馳走 とは、信長暗殺のことです。
しかし、さすがの兼続もそこまでは読めません。せいぜいが「明智が仲裁をするから和睦しよう」という呼びかけと考えるのが普通で、「そんなペテンに引っかかってたまるか」と考える、景勝ほかの意見が当然です。
織田軍内部に裏切りが出るなどとは、当時でもほとんど考える人はいなかったでしょう。
唯一、知っていたとしたら、秀吉か、黒田官兵衛ですね。
明智光秀ないし、光秀をそそのかした近衛前久を通じて連絡があったのではないかという推理をする作家が数多くいます。
準備がなければ、いわゆる、中国大返しなどという離れ業は出来ないというのが、推理の根拠です。
私も、なんとなく、秀吉は知っていたという説に賛同します。明智からの連絡、相談はなかったと思いますが、近衛前久からの打診はあったであろうと思います。
信長が安土への遷都を計画していたことは、かなり可能性の高い推理です。
さらに、京都の公家衆を切り捨てる、つまり政治に参画させない意向であることは確実でした。
近衛を筆頭とする公家にとっては死活問題です。何としても信長の独走を阻止したい、信長包囲網が崩れ去った今、方法論は唯一つ、内部崩壊しかありません。
秀吉にも、決定的弱みがありました。信長の資金源である生野銀山の管理を任されていたのは秀吉なのですが、銀山では金も産出します。
しかし、秀吉は銀の産出のみを報告し、産出した金はネコババしていたのです。備中高松城を水攻めにした大土木工事の資金は、この、ネコババした金で賄われていました。半端な金額ではありません。背任横領罪そのものです。これが発覚したら…、命はありません。秀吉も、信長には死んで欲しかったのです。
…このあたり、詳しい事情に興味のある方は、加藤廣「信長の棺」をお読みください。信長公記の作者、大田牛一を主人公にした小説です。
ともかくも、信長は6月1日に本能寺で死にます。
それを知らない柴田勝家によって、魚津城は陥落、守備隊は全員、切腹して果てます。
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