雪花の如く
第12編 毒と薬
文聞亭笑一作
景勝と景虎の政権争いのことを、「御館の乱」と呼びますが、「御館」とは、謙信が、元・関東管領であった上杉憲正のために建てた隠居所のことです。謙信は上杉の名跡を継いだのですから、憲正は義理の父にあたります。「義」を重んずるものとしては、父親に最大級の親孝行をせねばならぬと考えるのは当然で、直江津の港と、春日山城の中間あたりに、当時の越後の水準をはるかに超えた、京風の雅な御殿を建てていました。
勿論、隠居御殿ですから戦争用の備えなどはありません。平坦な土地に、泥棒よけの堀を巡らせた程度の施設ですから、敵の攻撃に対する守りは出来ません。
景虎がなぜ、このような所に本陣を据えたのか、小説家によって意見はまちまちです。
政権争いは、楽勝で勝てると思っていたという、油断説があります。
元関東管領・上杉憲正の権威と、謙信の血脈を利用しようとした、という説があります。
さらには、最初から謙信の跡継ぎになる野心がなかった、という説もあります。
色々な説を参考にしながら、景虎の思いを推理してみるのも面白いものですね。
文聞亭が思うに、この政争の主役は景虎ではなかったように思います。
景虎は単なる傀儡で、越後の重臣たちの権力争いだったと思います。景虎派の武将たちは、景虎が死んでもかまわないという計算があったような気がします。事実、景虎派の中心人物は、魚沼郡の上杉十郎景信で、謙信と家系は近く、相当な野心家でした。
25、北条氏政は、遠く離れて育った弟になど、ほとんど肉親らしい感情は持っていない。
しかし、謙信の残した広大な領国を弟が継ぐとなれば、話は別である。
これまで、北関東の支配を巡って争っていた上杉との対立が解消され、のみならず、将来的には上杉領を併呑できる可能性すらあった。
景虎は、そうした兄の野心を知りぬいた上で、打倒・景勝のために、これを利用しようとし、氏政もまた、漁夫の利を獲んものとその誘いに乗った。
謙信の養子であった上杉景虎、この人に関する資料は、ほとんど残っていません。
北条氏康の7男として生まれ、幼少期は武田に人質として送られ、帰ってきたら、今度は上杉に人質に出されます。上杉と北条の和睦が成立したとき、小田原に帰れるのに、帰るのを拒否して越後に留まった…、というのが経歴です。その心意気に感じて、謙信が養子にしたという説もあります。
関東一の美男子で、芸術的才能が抜群で…と、ジャニーズ系の噂話ばかりが残っています。ちょっとニヒルで、さしずめ、戦国・キムタクというところでしょうか。
戦好きの謙信のそばにいながら、戦闘にはほとんど参加していません。手取川では、若気の至りで、謙信の許可も受けずに戦場に駆け出し、その結果、軍律違反で戦闘を指導した重臣の柿崎老人が責任を取って切腹しています。
援軍の依頼を受けた氏政は、自身が大軍を率いて乗り出したいところでしたが、そうも行かない事情を抱えていました。常陸(茨城県)に本拠を構える佐竹義宣が近隣の勢力を味方につけ、北関東を勢力下に収めつつありました。佐竹の本拠は水戸を中心にする茨城県北部ですが、結城、宇都宮、那須などの豪族を従え、更に会津の芦名に弟を養子に送り込んで福島県の半分ほどを勢力下に納めていました。
更に、茨城県南部から下総、安房(千葉県)にまで進出する勢いを見せています。
北条は関八州に君臨した…といわれますが、このときの北条家の支配していた範囲は、本拠地の相模、伊豆のほかに武蔵(東京、埼玉)、上総、安房の五カ国と、下総の半分、上野下野の一部に過ぎません。上野(群馬県)の大半は、武田と上杉に占領されていました。
他人の家督争いに便乗して越後を版図に加えるのは魅力に違いありませんが、佐竹の連合軍に後ろに回りこまれたら、袋の鼠にされかねない情勢だったのです。
佐竹義宣…関が原前後に、上杉景勝、兼続主従とは同志になって家康と対抗する男ですが、この時点でも、謙信の関東遠征に呼応して房総半島一円と、下野を手中に収めるべく、多数派工作を頻繁に繰り返していました。
更には、磐城(福島県)から北への進出も狙っていましたが、こちらは新興勢力の伊達政宗に阻まれて、守勢に立っていました。
伊達よりは北条が組しやすい、上杉を利用できる…これが佐竹の思惑です。
したがって、北条は忍城(埼玉県)の勢力7千しか越後には回せなかったのです。
景虎の誤算であり、上杉十郎、北条高広の誤算でもありました。
小田原は北条(ほうじょう)で、越後の北条(きたじょう)も同じ字を使いますが、全く姻戚関係はありません。直江信綱も北条とは同系の上野長尾一族から養子に入っています。それもあって、関東権益には執念を燃やしていましたね。
26、「武田と手を結ぶ。この難局を乗り切るには、それよりほかに手はありませぬ」
「武田と結ぶだと。そなた正気か。」
「医道にても、毒は使いようによって良薬になると申します」
「無理だ」
「喜平次様は、毒を飲む勇気がおありにならぬのでございますか」
武田軍2万は海津城を出て、北国街道を真っ直ぐ北上してきます。現在の信越線が通るルートですが、国境の柏原までは一日で進軍できる至近距離にあります。
しかし、武田勝頼の本隊は、物見遊山をするようなスピードで、即座に攻撃を仕掛けてくる様子はありません。国境を越えて越後高田のあたりに陣を敷き、動きません。
理由は…、小田原の北条を応援するために出陣したのに、小田原軍が姿を見せないからです。おつきあいで出てきたのに、肝心の北条がいないのでは、やる気がおきません。
武田勝頼にしてみれば、長篠で多くの重臣たちを失い、建て直しの真っ最中なのですから、戦力の消耗は最も避けたいことでした。小田原の北条が先兵になって上杉と戦うのを見物するのが目的だったのです。武田軍は軍の首脳陣が大幅に若返り、信玄時代の戦上手のものたちがほとんど残っていません。経験の浅いものたちばかりです。
「軍事演習として、実戦体験をさせる絶好の機会」と、少ない生き残りの一人、高坂弾正が進言し、上杉と北条の戦闘を見物しながら漁夫の利だけは頂こうという魂胆なのです。
一方の北条は、先に述べたような事情ですから春日山に進軍するほどの勢いはありません。
三国峠を越えて、越後に出張してはきましたが、景勝配下の上田衆が守る与板城に手を焼いて、釘付け状態です。
この写真は、新潟県在住の余禄先生が撮影して来てくれた現在の与板城址ですが、これから観光客で賑わいそうです。
与板城址と呼ばれる城は二つあるそうで、本与板城と、与板城があります。
本与板城は、鎌倉以来の古い城で、城山と呼ばれる与板城が、直江兼続が築城した新しい城です。本与板城は春日山の狼煙が見える位置にある戦国の城、与板城は治世のための城だったと、与板出身の友人・内藤孝輔さんに教わりました。天地人ツアーにお出かけになるときは、戦国の城と、治世の城を見比べてみてください。
余談になりました。
ともかくも、窮余の一策…武田との提携に走ります。
27、知恵は正しい方向に使われたとき、崇高な輝きを放つが、そうでないときは、単に詐略にすぎなくなる。
兼続には一つの確信がありました。
「条件さえ折り合えば、武田は決して攻めては来ない。むしろ味方につく」
武田勝頼は戦好きの男といわれていますが、戦争が好きだったのではなく、父親の遺産を守るのに必死だったのです。
本当の遺産は「信玄が育てた人材」だったのですが、領土や金銀と勘違いしていたところが、勝頼の悲劇でした。武田24将といわれた、優秀な部下を遠ざけ、自分の子飼いの若手を抜擢したのは悪くはありませんが、諫言を聞かず、甘言ばかりを採用してしまったところが、2代目の悲劇につながりました。
中小企業では息子を2代目に据えて事業継承を計るのが通例ですが、諌言を聞く度量があるかどうか、そこが決め手でしょうね。
兼続の用意した条件は、武田にとっておいしい話です。
永年争っていた上野の支配権を上杉から譲りうけ、おまけに金1万両の大金です。
軍事演習に来ただけで、この見返り…おいしすぎて頬っぺたが落ちそうです。
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