雪花の如く
第17編 火事場泥棒
文聞亭笑一作
戦国時代は戦争の連続です。よくもまぁ、飽きもせずに戦争ばかりしていたものだとあきれますが、「○○の戦い」と名が付くだけで、数え切れないほどですよね。
謙信は百戦百勝だったといわれますが、小規模なものを含めれば、百くらいはやったでしょうね。戦国物を読めば、戦いの描写がほとんどです。これは、勝ったほうが、自分の手柄を書き残すために、膨大な記録を残した結果です。
特に、秀吉が記録好きで、大田牛一や大村由己という専属の小説家をかかえ、あることないこと、自分を飾る記録を捏造させていました。
太閤記、信長公記などは、大田牛一の書いたものに、秀吉自らが文句を付けて大幅に改ざんしています(信長の棺;加藤廣より)。
まぁ、程度の差こそあれ、いつの時代でもやっていることですから、取り立てて文句を言うこともないでしょう。記録とはそういうもので、私の日記とて、私に都合の良いことしか書いてありませんからね。常に正義の主役は私です。(笑)
ともかく、数多い戦いの中で、歴史を動かした大きな事件は関が原の戦いと、本能寺の変でしょうね。日本の政治構造が大転換するほどの影響力がありました。
40、平時ならいざ知らず、今は危急のときである。
一瞬の判断の遅れが命取りになる。
複数の合議によって議論を紛糾させるよりも、一人の知者の迅速な判断で物事を進めたほうが、荒波を乗り越えやすい…景勝はそう考えている。
(略)
「その場限りの利に心を動かされるのは危険です。義あってこその上杉家。
しかし、明智の誘いは蹴るとして、織田方に奪われた上杉領は、この機に取り戻すべきでありましょう」
本能寺で信長を暗殺してから、明智光秀は諸国に檄を飛ばします。
「魔王・信長をやっつけた。一緒に、信長の残党を退治しよう」という内容です。
ところが、諸国の反応は微妙でした。光秀が思っていたほどの反応がなかったのです。
なぜでしょうか?
引用した部分のように、「主君を暗殺するようなものには『義』がない」などと考えたのは上杉だけです。なぜなら…それまでの100年も下克上の時代なのです。主君を暗殺して政権を奪うなどというのは当たり前で、当時の大名のほとんどは、同じことをして大名になっているのです。
明智の行為に「悪」のレッテルを貼ったら、自分の正当性さえ主張できなくなります。当時、鎌倉以来、足利以来の正当な大名として残っていたのは、北関東の佐竹と、九州の島津しかありません。
上杉が…名前だけ、何とかその仲間入りですね。
もう一つあるとすれば、光秀が盟友と頼りにしていた細川でしょうか。
ほとんどの大名は「おまえこそ信長の残党ではないか。信長の後継者に協力はできない」
というのが理屈の世界でした。
最大の関心事は、利益供与の可能性です。信長が死んでも、織田軍団は一兵も損なってはいません。相変わらず、最強の軍隊が残っています。
跡目争いで、織田軍団が内部消耗すること、これに期待します。
高みの見物…というよりは、織田の占領地に攻め込んで、火事場泥棒をする絶好のチャンスです。この好機を見逃すはずがありません。
兼続の意見は単なるタテマエ。領土奪回がホンネです。
そのあたりの読みが、光秀の誤算でした。
41、いかにしてこの危機を乗り切るか。
悲しみを離れ、秀吉の思考はすばやく動き出した。
このとき、軍師の黒田官兵衛が、秀吉の耳元で低くささやいた。
「これは危機にはあらず。むしろ、千載一遇の好機。明智を討てば、天下は殿のものでございますぞ」
「天下か・・・」
戦の神は常に、時の勢いをつかんだほうに味方する。
太閤記では「秀吉は我を忘れて泣いた。茫然自失であった。」と書いてあります。
嘘でしょうね。
「やった! 光秀、良くぞやってくれた」というのがホンネで、想定内の話です。
この部分は、秀吉と官兵衛の、一世一代の演技で、自らの陰謀を隠したのではないでしょうか。太閤記にしか残っていないところが怪しいのです。
秀吉と、仕掛け人(と、文聞亭が想定する)近衛前久の間では、頻繁にやり取りがあったと思われます。中国大返しにしても、食料の補給がなくては不可能です。スタート地点の備中高松から姫路まで、箱根駅伝よりも遠い距離ですよ。マラソンの数倍の距離です。
鎧兜を付けて、数万の人がマラソンをするとは…、東京マラソンの映像を見ながら、とても信じられません。
この日に備えて、準備してあったのです。
もし、光秀が実行しなくても、信長が応援に出陣してきます。そうなれば、信長のために用意したと、言い訳が出来ます。「猿、心配り大儀」と褒められますから、どちらに転んでも、秀吉は困りません。
ついでに、「生野では金の鉱脈が見つかりました」と報告すれば、「であるか」と信長を喜ばせることも出来ます。
用意周到に準備して待つ。秀吉と官兵衛は「とうとうやりましたな」「光秀、でかした」とでも会話していたと思います。
42、むろん、この間、上杉家も黙って家康の動きを放置していたわけではない。
北信濃に侵入してきた北条軍、徳川軍と三つ巴の鍔ぜり合いを演じ、謙信以来の悲願であった、川中島4郡を確保した。
家康にとって、本能寺の変は青天の霹靂です。
光秀が、家康を味方につけようなどと考えるはずがありません。
織田軍団の中で、最大の戦力を持つものは家康であり、柴田や秀吉の差ではありません。
光秀も「家康は見つけ次第斬る」と、懸命の探索をしたはずです。
紀伊半島横断の、必死の逃避行でした。
やっとの思いで三河に帰り、「さぁ、俺の出番」と出陣した頃には…山崎の合戦は終わっていました。
中央に進出するには、秀吉と勝家の双方を相手にしなくてはなりません。
方針を北に向けなおします。このあたりで、家康と石川数正の溝が深まります。
43、その一方で、家康はそれまで敵対関係にあった関東の北条氏と融和を図った。
もはや武力によって秀吉の天下を阻むことは出来ないが、背後を安定させて、政治的立場を強めることにより、秀吉との外交を出来るだけ有利に進めようとしたのである。
政権奪取を一時的に諦めた家康の動きは、実に素早いものがありました。
織田軍、信濃方面司令官は森長可です。弟の森蘭丸が本能寺で討たれ、中央に目が向いています。赴任してきたばかりの信濃に未練はありません。安土に向けて帰ってしまいます。
その空き家を…家康が一気に手に入れます。甲斐の軍司令官は川尻秀隆です。彼は、苛烈な占領政策で民衆の反感を買っていましたから、武田残党の一揆に追い出され、逃げるところを追いかけられて殺されてしまいます。ここも空き家でした。
間髪いれずに、空き家を占領する。これほどおいしいことはありません。
それに比べて、動きの遅かったのが北条と上杉です。
北条は上野から滝川一益を追い出し、信濃へと進みますが、ここで真田の抵抗にあいます。
真田昌幸とて、絶好のチャンスですから、東信濃一帯を手に入れたいのです。家康と連携して、北条の進出をくいとめます。
そこへ、遅ればせながら出てきたのが上杉です。
徳川・真田 対 北条の争いを横目に見ながら、春日山に近い水内郡、信濃川をさかのぼって高井郡、善光寺を押さえて更級郡、埴科郡と4郡を掠め取りました。
この4郡、北信と呼ばれ、善光寺平といわれる川中島戦の係争地なのです。
謙信と信玄が、死力を尽くして争った地域が、あっけなく景勝の手にはいってしまいました。漁夫の利…でしたね。
この稿のタイトルを「火事場泥棒」としました。最大の大泥棒が秀吉。空き巣狙いが家康。
景勝も、兼続も、コソ泥程度でしたね。
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