雪花の如く
第19編 真田の意地
文聞亭笑一作
信長の後継者争いは椅子取りゲームのようなものでした。候補者は5人、光秀、勝家、家康、秀吉、毛利…中央に進出できる環境にあったのはこの5人です。有力大名はほかにもありましたが、九州の島津と東北の伊達は距離が遠すぎます。北条、上杉は中央を窺う余力がありません。四国の長宗我部は海に阻まれていました。
この中でまず、毛利が降りてしまいます。毛利輝元はやる気があったのですが、伯父二人吉川広家は元就遺訓を持ち出して反対します。小早川景隆は秀吉に乗るほうが有利と判断します。堺など、商人たちの働きかけがあったのでしょう。瀬戸内海という交通の大動脈は、波立てたくなかったのです。
山崎での一回戦、秀吉が勝ち、光秀が落ちました。
賤が岳の2回戦、勝家が落ちました。
残るは秀吉と家康です。当然のように決勝戦が始まります。小牧、長久手の戦いですね。
このあたり、先日のWBCの野球を見るような、変則トーナメント戦でもあります。
47、秀吉が戦いを急がなかったのには理由がある。ここで無理に決戦を行って、双方に甚大な被害を出すのは秀吉の本意ではない。
――政の力で、徳川を屈服させよう――
敵も味方も傷つけず、政治力でそっくりそのまま自らの陣営に取り込んでしまおうというのが、秀吉一流の考えであった。
小牧長久手の戦いは家康の仕掛けで始まります。秀吉としては、外交的駆け引きで徳川陣営を切り崩そうと考えていたようなのですが、それを事前に察知して、仕掛けたのです。
秀吉は、徳川家臣団の内情をよくよく知り抜いています。吉法師と竹千代の清洲会談に始まり、姉川の戦い、金ヶ崎の退却戦、武田攻略などで、共闘作戦をしていますから、徳川家臣団の主だったものたちとは面識があります。かつ、家康にない、人間的魅力で友好関係を築き上げています。長引けば長引くほど、政治的工作の余裕が出来ます。
事実、秀吉からは隠密で、石川数正に提携の打診が来ていたのです。打診の内容は、どこにも記録が残っていませんから推測するしかありませんが、多分、連立内閣構想ではなかったでしょうか。先般ご破産になった自民党と民主党の大連立のようなものでしょう。
まず、位討ちを仕掛けてきます。朝廷の、しかるべき地位を与えようという作戦です。
家康にとって、家柄というのは劣等感の大きな要素ですから、朝廷との接触は魅力です。
徳川家は、新田源氏の流れだと唱えましたが、これが大嘘であることは秀吉にはバレていました。新田源氏の流れは常陸の佐竹が本筋で、佐竹の持つ系図のどこにも徳川への枝分かれはありません。朝廷から「源氏の長者」のお墨付きをもらうのは魅力です。
もう一つは、北条領の割譲ですね。共同作戦の提案です。
この話に、石川数正は乗り気でした。一方、酒井忠次、本多正信は反対です。
秀吉が一石放り込んだだけで、徳川の両巨頭が既に、割れ始めていたのです。
急遽、秀吉の専横に腹を立てている織田信雄を扇動して、戦端を開きます。名目上は信雄対秀吉の戦い、徳川は応援団の位置づけです。失敗しても損にはなりません。
戦いは、ご存知の通り、織田信雄の腰が砕けて引き分けでした。
48、家康はそれまで敵対関係にあった関東の北条氏との融和を図った。もはや、武力によって秀吉の天下を阻むことは出来ないが、背後を安定させて、政治的立場を強めることにより、秀吉との外交を出来るだけ有利に進めようとしたのである。
長久手の戦いで局地戦に勝利したものの、家康は秀吉の動員力に舌を巻きます。まともに戦ったら勝ち目はないと思い知らされました。
最終的に秀吉の集めた軍勢は10万といわれています。鉄砲の数ではもっと開きがありましたし、弾薬の供給量では、更に格段の差がありました。内陸部を押さえても、海外への道を持たない弱さを思い知らされたのです。
直接対決の無謀さを知って和睦に動いた石川数正と、「勝った、勝った」と浮かれた酒井忠次以下の家臣団、既に亀裂が鮮明に現れだしました。家康の思いとは別に、徳川軍団の内部崩壊の危機が膨らんでいたのです。
この危機を避けるべく、家康は目を東に転じます。後顧の憂いを断ち切って、家臣団をまとめるには北条との連携を強化しようと考えます。北条と連合軍を組めば、こちらも10万の動因兵力が可能になります。
「単独では勝てぬ」という数正の意見を採用し、決戦派の酒井に北条とのつなぎを命じます。
このときの条件が、上野(群馬県)を北条に割譲するというもので、徳川にとっては痛くも痒くもないことでした。群馬県のほとんどは北条領で、一部は真田の領土です。
真田には、「替わりに川中島4郡を与える」としました。
しかしここ、川中島は、本能寺のドサクサの間に、上杉が占領してしまっている地域です。
徳川軍の応援なしに、真田が単独で攻め取るなどというのは鼠が猫に戦いを挑むのに似ています。「黙って言うことを聞け」という態度でしたね。
49、「家康め、我らを山間の小豪族と侮りおって…。一寸の虫にも五分の魂があることを、重い知らせてくれよう」
大勢力の確執に、中小勢力が犠牲になるのは世の常で、普通は泣き寝入りするところなのですが、真田一族は猛然と歯向かいます。勝算があったのか、なかったのか…、想像するしかありませんが、真田昌幸の、一種の賭けだったように思います。
北条と徳川はグルですから、東と南には抜け出せません。活路を見出そうとすれば、北の上杉か、西の秀吉です。双方への工作が始まります。
真田昌幸は「もしものときは上杉を頼れ」と言い残した信玄門下の優等生でした。
まずは、上杉に提携を模索します。2男・幸村を人質に差し出し、上杉の傘下に入ろうと画策します。
景勝にとっても、兼続にとっても、予期せぬ出来事です。徳川とは、今まで一度も表面だった争いはありませんでしたし、交渉もありません。越後と東海はほとんど交流はなかったのです。武田という巨石が転げ落ちて、突然、目の前に東海の勢力が見えてきたという驚きが先立ったでしょうね。事前準備も何もありません。突然、海津城にいる前線基地の占領軍に提携話が飛び込んできたのですから、混乱しました。
50、この乱世、群雄の狭間で弱小勢力が生き残っていくためには、それなりの 知恵と工夫がいる。真田氏が異能のものたちを手元で飼い、戦いに利用したのは、まさに”生きる知恵”であった。
真田…、六文銭… 上杉の家臣たちにとって響きの良いものではありません。
川中島の度重なる合戦では、散々痛い目に遭いました。武田軍の奇襲攻撃を受けるたびに、勝ち誇った敵軍には六文戦の旗印が翻っていました。上野でも、関東へ進軍するたびに、後方をかく乱され、軍需物資を奪われていました。
「チョロチョロ出てきおって、うるさいハエのような奴ら」というのが真田の印象です。
「何をいまさら…」というのが、正直な気持ちなのですが、「義」を旗印にする景勝としては、黙って見過ごすわけには行きません。それに、真田という緩衝地帯がなくなれば、直接徳川、北条と接触してしまいます。3大勢力の交差点にいる、使い勝手の良い存在であることも確かです。
もう一つ、兼続が注目していたのは、真田の情報力でした。
中央で起きる出来事が、越後に伝わるのは5−7日後です。ところが、真田の使者から入る情報は、2−3日早いのです。どこが違うのか…
越後春日山と、信州上田、都からの距離には大差がありません。むしろ、海を使える越後のほうが情報距離は短いはずです。にもかかわらず…、不思議です。
兼続は真田の知恵、情報能力に高い関心を持ちました。中央の動きを知らずして、国の舵取りは出来ぬ、と、その方法論を模索していたところなのです。
「義によって真田を助ける」と大義名分を打ち出し、その代わりに幸村がもたらす情報技術を掴み取ろうと考えたのです。真田を味方につけても、得るものは少ないのですが、情報力を手に入れれば、余りある収穫です。
それがあってか、それとも偶然か、人質として越後に向かう幸村一行には、木猿…後に講談などで有名になる猿飛佐助がついていきました。さらに、見え隠れに霧隠才蔵が『つなぎ』として従っています。後の真田十勇士、彼らのほとんどは異能のものたちなのです。
彼らは、縄文以来の山の民のことで、伊賀、甲賀の、いわゆる忍者とは異質ですね。
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