雪花の如く
第27編 まつろわぬ者
文聞亭笑一作
徳川家康の帰順で、豊臣政権は中央覇権をほぼ達成したのですが、関東の雄・北条氏政と、東北の雄・伊達政宗は豊臣政権を認めていません。
「地方自治」の戦国体制を維持しようと秀吉の命令を無視し、抵抗を続けます。
いずれも、頼りにしていたのは家康の動きで、いつかは家康が裏切るに違いないと、期待と確信をもって、家康の反乱を待っていたのです。上杉景勝も、その意味では期待の星だったかもしれませんね。帰順した振りはしているが、本心は別にあると期待されていました。信長が部下の明智光秀に暗殺されたように、徳川か、上杉が秀吉を裏切るに違いないと期待されていたのです。
「全体の流れを見る目がない」「情報に疎い」と言われればそれまでですが、当時の情報伝達のスピードや、情報媒体の不正確さからすれば、一概に伊達や、北条を「愚鈍」と批判することはできません。実は、家康が、不可解で、複雑な動きをしていたのです。
家康は、政宗に対し、「小田原に参陣する必要はない」と書き送っています。
小田原の北条には「俺が何とか仲裁してやる」と、期待を持たせていました。
秀吉が、参陣しなければ征伐する、と決心しているのを知りながらの忠告?です。
この、家康の動きをどう理解するか? 「反乱の準備あり」と判断もできます。
家康の反乱を期待していた北条は小田原に籠城し、伊達は会津を攻め取りました。
伊達政宗は腹を立てていた。上方勢の、何につけても露骨に示す「西高東低」の気風についてである。上方の政権がこういう態度を示す歴史は古い。坂上田村麻呂の東北征伐のときからそうだ。
商工業中心の豊臣政権から見ても、農業中心の家康から見ても、東北はさして魅力のある地域ではありません。経済規模が小さすぎます。
後の明治政府ですら「白河以北、一山百文」などと言っていたくらいですから、領土としても魅力がなかったのです。東北には、伊達という山賊がいて、勝手なことをして言うことを聞かない、程度の認識ではなかったかと思います。言葉は悪いですが、現代の企業が低開発国を見る目に似ています。市場の魅力を感じていないのです。
ただ、日本の帝王・関白・太政大臣の命令を聞かないのでは、秀吉の沽券(こけん)にかかわります。ソマリアの海賊に、国連が世界中の海軍を集めて対応するようなものです。秀吉にとって見れば伊達政宗とは、カストロ、カダフィー、フセイン、金正日…の類だったでしょうね。
家康が、陰で政宗を煽っていたのは、現代の中国やロシアと同根だったかもしれません。
中国が、アメリカ・ヨーロッパ勢の専横に、快い気持ちを持っていないと同様に、秀吉のやり方に抵抗してみたかったといえます。
中華思想と言えば中国人の専売特許のようにも思いますが、決してそうではありません。
欧米人にも、民主主義の中心、文化の中心という中華意識があります。
奈良・平安の昔から、京都・大阪などの関西人は、古来、中華思想の持ち主です。(笑)
自らを政治文化の中心に位置づけ、地方を馬鹿にしていました。東北や四国は、未開人といった目で見ていましたね。中でも、東北に関しては蔑視という感覚でいたことは間違いなく、現代ですら「熊襲発言」をした酒屋の親爺もいたくらいです。東北弁も、関西弁も標準語とはかなり離れていますが、関西弁は認めて、自慢し、東北弁は馬鹿にするのですから、かなり自己本位、自己中心です。
おっと、読者には関西人が多かったですねぇ。悪口はこの辺でやめましょう(笑)
伊達政宗は、ともかくも東北の意地を示したかったのです。
「上方勢よ、お前たちだけが人間だと思うなよ!」
伊達政宗の胸の中には、こういう感情が渦巻いていたのです。特に、天皇の権威を借りて、頭ごなしに命令を繰り返す秀吉には、生理的に嫌悪感を持っていました。
秀吉の理論構成は何もかも天皇を中心に組まれている。手っ取り早くいえば
「俺の言うことを聞かぬ奴は朝敵だ」ということだ。
乱暴な論だが、秀吉は関白・太政大臣の職にあり、朝廷の最高職にあるのだから、これはこれで理屈が通っている。公私混同もはなはだしいが、そんなことを口に出すものはいない。
秀吉は伊達政宗の帰順を、歓迎していたかどうか、怪しい節があります。
中途半端に帰順されるよりも、抵抗させて、それを上杉に討伐させることを狙っていたのではないでしょうか。上杉と伊達が会津領内で決戦すれば、戦力的には互角です。双方ともに甚大な被害を出します。領内の経済力は弱まり、疲弊します。相打ちで、両方潰れてしまえば万万歳です。越後から東北にかけての脅威は消え去り、秀吉の、思うがままに支配できます。三成の考える中央集権体制が東北から北陸にまで完成します。そうなれば、家康を関東に封じ込めて、身動きできなくすることができます。
「小田原に参陣しなくてもよい」という家康のアドバイスに、政宗は不審を抱きます。
特に、北条の支城を攻めている徳川勢が、本気で戦っている情報に不審を感じます。
家康の言っていることと、やっていることが違います。「やばい!」と感じたのはさすがですね。急遽、小田原に参陣しますが、箱根山中に反乱容疑者として監禁されてしまいました。ここでジタバタしたら終わりでしたが、利休を味方につけ、堂々と言い訳します。
「東北を侵攻していたのは、伊達家が奥州探題の家柄だからだ。天皇のためだ」
平安時代の職制を持ち出して、秀吉の関白論に対抗します。秀吉の理屈も時代劇のようですが、正宗の理屈も時代劇です。
現代人が「我が家は直参旗本の家柄だ。この紋所が・・・」と主張したようなものです。
しかも演技力たっぷりにやりますから、秀吉も大笑いに笑ってしまいました。
その席で伊達政宗は黄金の大判を取り出した。東北の富を誇示したのだ。
大名たちはこもごも手にとって、大判の厚さに感嘆し、その重さを量った。
兼続のところに大判が回ってきた。それを、兼続は手で受けなかった。扇を開いてその上でポンポン、大判を躍らせた。
兼続と伊達正宗との間の有名な挿話です。
「わしの手は、槍や刀を持つのに使う。銭金など不浄なものに触れるか」
と、正宗をからかったのです。黄金を自慢する正宗に、大恥をかかせたのです。
この話は三成の口を通じて大々的に宣伝され、兼続の人気を高めました。清廉潔白な武士の鑑(かがみ)、兼続こそ日本一の武人、さすが謙信の愛弟子、上杉魂・・・と、大評判です。
一方、バカにされた正宗もケロリとして「参った、わしの負けだ」と応酬して、人気を博します。一方、同席して黄金を手に取り、しきりに感心していた家康や、浅野長政などが大恥をかくことになりました。
「それに引き換え・・・」と、ダメ武士の代表にされてしまったのです。
徳川と上杉の確執は、既に小田原の陣から始まっていたともいえます。
兼続には、もう一つの有名な話があります。
兼続裁きといわれるもので、庶民の間に、伝説的に残っていた挿話です。話の舞台は信州・川中島、越後国内、会津領内などいろいろですが・・・
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兼続の部下が民事訴訟を裁いているときに、誤審によって一人の百姓を成敗してしまった。
それを聞き知った農民たちが「上杉の施政は強引だ」と一揆を起こしかねない騒ぎになった。兼続が事情を確認すると、明らかに部下の間違いである。冤罪事件だ。
兼続は部下の失策をわびて、手をついて謝った。部下の間違いは上司の間違い。家老の間違いは領主の間違いと、賠償金だけでなく本心から謝ったのだが、相手は許してくれない。
「死んだものを返せ!」と叫んで、梃子(てこ)でも動かないのだ。かなり政治的な思惑があったようで、上杉の施政の残忍さを宣伝しようとしていた節があった。
「あいわかった。ならば閻魔大王に掛け合ってみるしかあるまい。わしが閻魔大王に手紙を書くから、そのほう、手紙を持って地獄に使いせよ」
言うなり、訴人の代表二人を斬り捨ててしまった・・・と言う話だ。
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現代でも「ごね得」という話が聞かれますが、自己主張、権利主張で一切交渉に応じようとしないケースがあります。延々と訴訟が続くケースですが、どこかで妥結点を見つけないと、争いごとは永遠に続きます。場合によっては戦争の火種にもなりかねません。
人権を重んじる現代人から見れば、兼続の処置は正しいとは言えませんが、自己主張を一歩も譲らないと言う態度が許されるかどうかは、大いに疑問です。
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