雪花の如く
第31編 会津へ
文聞亭笑一作
泥沼の朝鮮出兵で混乱する中で、豊臣政権を襲った豊臣家の内部混乱、それと符丁をあわせるように東北で事件が起きます。豊臣政権の北の要、蒲生氏郷が急死します。
蒲生氏郷は織田信長の側近として、その才能を高く評価されていた人物で、豊臣創業期には軍事、経済、外交のすべての面で秀吉が頼りにしていた人物です。ただ、少し醒めたところのある教養人で、秀吉のお祭り騒ぎには付き合いません。
そういう意味では、信長と光秀の関係に近かったかもしれませんね。
石田三成とは同郷の近江の出身ですが、三成には先輩にあたります。才能、実力ともに、三成よりは優れていますから、三成からすれば煙たい存在だったでしょう。
秀吉も、氏郷の能力を高く評価していましたから、北の要である会津に百万石の大封をもって据えたのです。会津百万石とは、今の福島県全域です。
南の白河から関東を睨みます。勿論、そこには最も警戒すべき家康がいます。
北の福島からは奥羽を睨みます。そこには、何をしでかすか分からぬ独眼竜・正宗がいます。
さらに北西・山形には、つかみどころのない烏雄・最上がいます。
会津の西は越後。無口で、これまた腹の内が見えない上杉景勝がいます。
東は海ですから、周りはすべて信用できないものばかり、四面楚歌という環境です。
こういうところに転勤するのは嫌ですねぇ。ましてや関西人と東北人はそりが合わないのです。文化の違いというのか、体質が違うというのか、今でもその傾向がありますからね。
蒲生氏郷の死因は病死となっていますが…かなり疑わしい。毒殺、暗殺の可能性が高いのです。誰が、何のために…、筆者が大好きな推理小説の世界ですが、紙面が足りません。
関白秀次派と見ての暗殺・・・であれば、秀吉・三成犯人説。
秀吉の内戦禁止令に反して岩手、青森方面に領土拡大の戦争をしていた事を隠すためなら伊達正宗犯人説です。
いずれにせよ、単純な病死にしては不自然なことが多すぎます。
74、「蒲生に会津を任せては置けぬ」
東国支配の拠点として、会津の地を重要視する秀吉は、国替えの必要を感じていた。
「それで、わが上杉家に…」兼続は石田三成に聞き返した。
「そうだ」と、三成がうなずく。
「蒲生に代わり、奥州の要の会津をゆだねられるのは、上杉殿を置いてほかにいない。これは太閤殿下のご命令である」
転勤の内示です。組織人にとって、転勤は避けて通れないことですが、生活の基盤を失い、再構築を強いられますから喜ぶ人は、あまりいません。が、組織を拡大、縮小する場面では、組織にとっても避けられない手法です。する方も、される方も悩ましいですねぇ。
会社に、正社員として参加するということは、転勤のリスクを負うことでもあります。
それが嫌なら、昨今話題の派遣契約なり、臨時契約なり、正社員以外の道を選ぶことになります。転勤もない代わりに、雇用の保証もありません。「いいとこ取りだけしたい」という若者が増えていますが、世の中はそんなに甘くないのです。
蒲生家は、天才・蒲生氏郷一人で築き上げた組織です。信長の愛弟子でしたから、人は、その機能を使うことでまとめていましたので、要が外れたらバラバラになります。13歳の息子を支えて、氏郷の意思を継ぐような番頭はいませんでした。
「蒲生に会津を任せては置けぬ」 当然です。
代わりは? 秀吉直系から選べば、浅野長政、福島正則、黒田長政などが候補者ですが、軍人タイプでは家康、景勝、正宗といった、得体の知れない大物との外交には不向きです。
しかも、その3人は既に重要拠点に張った布石です。浅野は甲斐から家康を睨みます。
福島正則は東海道の拠点、尾張の清洲を任せています。黒田は筑前から毛利を睨んでいますし、加藤清正の担当は島津です。人がいません。
消去法の結果、残ったのが上杉でしたね。まぁ、転勤人事などはそういうものです。
それに、上杉とて信じきれてはいません。秀吉にとって、景勝が…分からないのです。
一石二鳥、上杉の力を弱めることも、豊臣政権の安定になります。
当時、石田三成が推進する「検地」という大事業(=税制改革)は豊臣直轄のところしか進んでいなかったのです。越後、会津の検地を、一気に実行することが出来ます。
75、越後の山野には、青春の思い出が色濃く刻みつけられている。先代謙信の薫陶を受けたのも、その謙信亡き後、景勝を助けて御館の乱を戦い抜いたのも、すべて越後の大地であった。
湿り気を含んだ越後の雪の重たさが、居多が浜の海鳴りの音が、雪椿の可憐な赤さが、体の隅々まで沁みついているのだ。
しかし・・・ それらは、天下のため、捨て去らねばならぬ感傷であった。
故郷は遠くにありて思うもの…と、望郷の詩人は詠みましたが、故郷にはその人を育ててくれた天があり、地があり、人があります。火坂雅志の原作「天知人」の題名の由来は、この文章の中にも籠められているのではないでしょうか。
越後の雪、越後の大地、謙信の薫陶が直江兼続を育て上げたのです。
「故郷を捨てる」 若いときには、故郷の持つわずらわしさが嫌になって飛び出しますが、その、わずらわしさが醸造され、思い出となって昇華されると、懐かしさに薫立ちます。
まさに「遠くにありて思うもの」なのです。
景勝・兼続にとって感傷に浸っている暇はありません。当時の90万石の経済規模を、全く別の土地に移転させる事業は大変なことです。まずは、家臣たちをいかに説得するかです。一人の転勤を説得するだけで、あれこれと苦労する我々には想像もできません。
まぁ、読者の皆さんの中には同様な苦労をされた方もおられるでしょう。都会の中心にあった本社工場を、地方の新工場に移転するのと同じです。
金で済む話は簡単ですが、情実が絡むと一筋縄ではいきません。ましてや、上杉家の家臣は兼業農家ばかりです。先祖伝来の土地にしがみついて生きてきた者たちばかりです。更には、産業利権も土地に付随しています。魚野川周辺の越後上布の商業利権も失うのです。
兼続の腕の見せ所でしたね。
三成との膝詰め談判で、佐渡と庄内地方は、明け渡さないことにしました。金山の利権、海運の利権、これは莫大です。米などには換算できません。
.庄内地方とは酒田の港です。海は、上杉家の存立基盤なのです。
しかし、庄内と米沢の間には最上家の所領・山形があります。飛地になってしまいました。
蒲生の旧領に佐渡と庄内が加わって120万石です。太閤秀吉をして「会津120万石のうち、30万石は兼続に与える」と言わしめたのは、この交渉成果を認めさせたのです。勿論、兼続が30万石を手にすることはありません。米沢6万石が兼続の取り分です。
76、「これは言わずもがなのことであろうが」
惣右衛門は前置きして
「家中の侍のうち、それぞれ嫡男は会津へ同道し、次男、三男については、越後の村々に帰農させて留めておくとよい。いざとなれば、彼らを扇動して、一揆を引き起こすことが出来よう。
…それから、商人も信用できるものを幾人か選んで残しておけ。越後の情報を、絶えず会津へ送らせるのだ」
したたかですねぇ。流石は越後の経済を取り仕切ってきた惣右衛門です。勘所を押さえています。戦力を考えれば、皆を引き連れて行きたいところですが、それでは現地採用が少なくなります。前任者の蒲生家は100万石から18万石への減俸ですから、4/5の従業員は解雇されて、会津に残っています。彼らの面倒も見なくてはいけません。
それを怠ると、関が原のあと、土佐に転勤した山内一豊のように、反乱に手を焼きます。
上杉の後、越後に入ったのは堀、村上、溝口の3家ですが、どちらも住民の反抗に手を焼きましたね。内政面ではことごとく住民に抵抗されて、四苦八苦しています。
さらに、惣右衛門は奥の手の秘策を伝授します。
「今年の年貢はすべて納めさせ、会津へ運んでしまえ」
これは違法ではありません。合法的手法ですが、慣行的ではありません。
後から入ってきた堀政秀などは、1年間収入がありませんでした。猛烈に上杉を恨みます。
惣右衛門も、兼続も「秀吉が死んだら、世は乱れる」と読んでいましたね。後継者争いが起き、戦争は避けられない。食料、物資は十分に備蓄しておこうと考えていました。
戦争は…経済なのです。物量なのです。
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