雪花の如く 第37編 サバイバル
文聞亭笑一氏作”雪花の如く”を連載します。NHK大河ドラマ「天地人」をより面白くみるために是非ご愛読下さい。
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各編と配布月日
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第42編:11月05日号
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第40編:10月22日号
第39編:10月15日号
第38編:10月08日号
第37編:10月01日号
第36編:09月24日号
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第30編:08月06日号
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第27編:07月16日号
第26編:07月09日号
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第03編:01月21日号
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第01編:01月07日号

雪花の如く

第37編 サバイバル

文聞亭笑一作

関が原で東西両軍が対決し、僅か一日で勝負が付いたと言う事実は、まだ東北には伝わってきていません。徳川軍は結城秀康、榊原康正の3万の兵を宇都宮に残して、上杉の動きを警戒しています。水戸の佐竹も、どっちつかずの微妙な立場になり、じっとしているしかありません。東軍・徳川、西軍・上杉、日和見・佐竹と三すくみ状態が北関東戦線です。

徳川軍の結城秀康は家康の次男です。本来ならば家康の後継者として、2代将軍になるべき立場ですが、幼少の頃に秀吉の元に人質として送られ、家康よりも秀吉に懐いてしまったと言う経歴です。秀康は家康の農本的幕藩体制よりも、秀吉的中央集権に近い政治理念を持っていますから、後継者には指名されなかったのです。

その意味では、東部戦線で一暴れして、親父の鼻を明かしてやりたかったのですが、景勝が誘いに乗ってきませんでした。事実、何度か北進する姿勢を見せて、上杉を挑発しますが、上杉は誘いに乗ってはくれませんでした。

徳川家の中も、後継者争いは微妙だったのです。3男秀忠は真田の挑発に乗って関が原に遅刻すると言う失策をしていますし、4男信吉も目立った活躍がありませんでしたね。

創業者が偉大だと、後継者選びはうまく行きません。どちらかと言えば、凡庸な秀忠を後継者に選んで、老中の合議制を採用した家康は成功したほうでしょう。

98、「正宗は、しばしばわが国境を侵略している。よって、先ずこれを滅し、しかる後に最上義光を攻め、後顧の憂いを除かん」
と、戦いの決意のほどを述べた。
主君景勝の命を受けた兼続は、二万の軍勢を率いて会津若松城を出陣、信夫郡の福島城に進んだ。

伊達政宗は徳川と上杉が皮籠原で激突してくれることを期待していました。正宗にしてみたら、両雄が激突して、どちらも深手を負い、世の中が乱れて戦国に戻ることを期待していました。豊臣体制が続いても、徳川新体制が誕生しても、彼自身の行動範囲が規制されてしまいます。正宗は、あわよくば天下に臨みたいと思っていましたし、それがダメでも東北一円を手中に収め、藤原三代のように北国の王として君臨したかったのです。

先ずは、家康に協力して上杉を潰し、佐竹も追い出し、最上も従えて東北に既得権を広げようとしました。家康が小山に居る間に、上杉が南に注目しているのを狙い、福島県の北部に侵入し、白石、福島まで進んでいます。

火事場泥棒そのものですが、戦争などと言うものはすべてそういう性格を持ちます。敵の注意力が薄くなった隙を突いて、実利を得るのが狙いです。陸前(宮城県)一つに押し込められたままで、伊達政宗がおとなしくしているはずがないのです。

伊達政宗の参謀に、片倉小十郎が居ます。上杉における直江兼続と同様に、内政、軍事ともに引き受け、伊達の活動の中心的存在になっています。小十郎がいたればこそ、正宗は勝手気ままに夢が膨らませることが出来たんですね。大将はビジョン・メイクだけやり、NO2が内部を取り仕切る。この体制が出来た戦国大名だけが生き残りましたね。

一人ですべてを切り回していた大名たちは消え去り、NO2との役割分担ができていた組織が生き残りました。これは、現代の組織においても、実に参考になります。NO2が煙たくなって、追い出してしまうような経営者では、後継者も育ちません。

余談になりますが、片倉小十郎は信州・諏訪系の人物です。もともとは神主として伊達領内に居たのですが、正宗に発掘されてめきめき頭角を現しました。

99、家康は戦勝の勢いを背景に、豊臣家に厳罰を持って臨んだ。
「石田三成に担がれたとはいえ、大乱を未然に防げぬことの責任は重い」として、豊臣家が全国に有していた直轄領、約200万石を没収、摂津、河内、和泉三カ国65万7千石の領有のみを認めた。
ここに豊臣家は上方の一大名に転落した。

「勝てば官軍」と言いますが、家康が豊臣家を罰すると言うのは筋が合いません。

もともと、豊臣の家臣として上杉討伐に出向いたのに、関が原に勝ってしまってからは自分が主人で、豊臣を家来にしていますね。まぁ、世の中はそんなものです。

家康が、戦後処理で最も苦労したのは手形決済です。味方についてくれた豊臣系の大名たちに発行した約束手形を決済しなくてはなりません。関が原で負けた大名から没収した土地だけでは足りるはずがありませんから、豊臣家の直轄領は喉から手が出るほど欲しいのです。ですから豊臣秀頼に渡す66万石だって、勿体無くて仕方がなかったのですが、あまりにケチると、加藤清正や、福島正則が黙っていませんから仕方なしです。

長宗我部、宇喜多、小西などの西軍武将からはすべて取り上げ、毛利、上杉、佐竹は大幅に削って手形決済に回します。

手形の信用は今も昔も変わりませんからね。約束をたがえたら、いつ、敵に寝返るか分かりません。徳川体制も磐石ではないのです。

このときの家康の大名配置は実に巧妙でした。豊臣系の大名は、大封を与える代わりに、できるだけ遠隔地に飛ばし、しかも、外様大名同士の境には徳川家の直臣たちを監査役としてはめ込みます。外様大名相互の連絡状況を監視させるような配置です。

さらに、東海道には家康が信頼できるものばかりを配置し、京・大阪で何か異変が起きたら、即刻駆けつける体制をとっています。小田原には大久保、駿府は家康自らが、名古屋には息子を、伊勢には藤堂、彦根は井伊と言う具合です。

それでも心配だからと、東海道53次の宿場町はすべて直轄領にしています。

水戸黄門のお話に「悪代官」が登場しますが、5街道ともに、宿場町は代官様が治めていたのです。大名が出てくるはずがありませんね。(笑)

100、「伊達に勝利したことと、天下をめぐる争いを混同してはならぬ。勝負は決した。徳川と和議を進める。これは殿の御意思である」
重く響き渡る声で、決然と告げた。兼続の一言で軍議は終わった。

家康が大阪城に乗り込んで、大名の配置を検討していた頃、北の戦線ではまだ戦いが行われていました。距離による情報の遅れはいかんともかしがたかったのです。

白石、福島などの戦いは、家康の援軍が期待できない伊達政宗が、さっさと和睦して逃げ帰ります。次は、米沢に侵略しようとした最上との戦いですが、これまた後一歩のところで、関が原の敗報が伝えられ、伊達の援軍を蹴散らす羽目になりました。

山形からの引き上げ戦、熾烈な戦いでしたね。退却するところを襲われるのですから、断然不利です。景勝が「義にあらず」と嫌った追い討ちですが、追い討ちほど有利な戦いはありません。相手は後ろ向きなのですから、やりたい放題が出来ます。

この戦いをしのぎきったのは、勿論、兼続の采配ですが、前田慶次郎の大活躍がありました。会津に入ってから召抱えた外人部隊を裁量して、最上軍、伊達軍への突撃を繰り返します。「逃げるはず」の敵が突撃してくるのですから意表を衝かれます。最上義光などは、前田慶次郎の部隊の鉄砲が兜に当り、びっくりして逃げ出したりしています。

前田慶次郎…秀吉から、日本一のかぶき者(自由奔放)と言われた男です。

もともとが、加賀前田家の正当な後継者だったのですが、幼少の頃に、伯父の前田利家に家督を奪われて、前田家の居候のような形になっていました。秀吉には可愛がられたのですが、前田利家や利長には煙たがられ、京都で知り合った兼続の後を付いて会津に来ていたのです。天下御免の風来坊…こういう自由人が闊歩していたのも戦国時代でした。

徳川との和議、一筋縄では行きません。直江状で、散々家康を刺激していますから、家康も恨みがあります。何とか上杉を取り潰しにしたいのですが、5万の上杉軍を刺激しては、折角手に入れた安定政権に傷が付きます。戦争にでもなれば、落ち着いていた上方で恩賞に不満のある豊臣シンパの大名が離反するかもしれません。上杉が牙をむかないぎりぎりの線を探るのに、家康は苦労します。

上杉家処遇の件に、並々ならぬ熱意を示してきたのが本多正信です。

本多正信は、徳川秀忠の参謀として中仙道方面軍の担当だったのですが、上田で、真田の仕掛けた罠にはまり、関が原に間に合わないと言う失策をしています。このままでは家康第一の側近と言う地位も危うくなります。

上杉と徳川の交渉をうまくまとめる・・・というところで手柄を立てようと兼続に接近してきました。何万石で上杉家を残すのか、政治駆け引きと言うのか、ぎりぎりの交渉ごとです。押したり、引いたり、5万石が10万石になり、最終的には米沢30万石でまとまります。兼続は「義によって追い討ちせず」という決断を、手柄だと押し切ったのです。

交渉ごと…知恵の限りを尽くしますね。綺麗ごとではすみません。疲れます。

【NHK大河ドラマ「天地人」をより面白く見るために!】
時代に生きる人物・世相を現代にあわせて鋭く分析した時代小説、ここに登場。
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