雪花の如く
第41編 秀吉の影
文聞亭笑一作
どこからか、大阪の陣の足音が、ひたひたと聞こえてきます。徳川政権が、だんだんと安定の度を加え、戦国諸大名の毒気も抜かれてきました。戦国大名たちの意欲をそいだのは、何をさておいても財力の枯渇です。金の切れ目が野心の切れ目、縁の切れ目です。時代は変わっても、この法則は生きていますね。
西国大名たちは、度重なる朝鮮出兵で蓄えがなくなり、さらに、海外貿易禁止で、魅惑的財源を失いました。特に九州の大名が財政危機に陥りました。
その上に、江戸城修復工事、名古屋城新築工事、木曽川改修工事などに借り出され、借金地獄に陥っています。徳川幕府の横暴には腹を立てているのですが、「先立つもの」がなくては、戦争を始めるわけにいきません。
その中でただ一人、虎視眈々と政権転覆を狙っている者がいました。
独眼竜、伊達正宗です。正宗は単独で反抗しても、勝てないことは承知していますから、家康の五男坊・忠輝を次期将軍、又は副将軍にしようと画策します。忠輝の奥方は正宗の娘、いろは姫です。忠輝に政権をとらせ、黒幕として徳川幕府を牛耳ろうという戦略です。
さらに、幕府と戦争になったときのことを考え、イスパニアに援軍を要請しています。
その使者が、歴史教科書にも出てくる、支倉常長です。忠輝擁立の可能性が出てきたら、イスパニア海軍の出動を要請し、擁立に失敗したら、単なる宗教使節団として…誤魔化すという、高等戦術でした。
結果は、忠輝の家老で、正宗の相棒であった大久保長安が脳卒中で突然死し、陰謀が明るみに出て、挫折しています。この事件で、徳川幕府内の反・秀忠派であった大久保忠世、石川康長などが改易され、徳川幕府が一段と磐石になってしまいました。
大久保忠世は大久保彦左衛門の兄です。彦左衛門が出世できなかったのも、この事件の後遺症です。石川康長は別シリーズ、「煩悩の城」の主役、玄徳、数正の長男です。
111、家康の側にも秀頼を呼び出すことで、徳川、豊臣の主従関係が逆転したと言うことを天下にはっきり印象付ける狙いがある。
関が原合戦を境に、天下の形勢は大きく変わった。
そこで生き残っていくためには、上杉景勝、直江兼続主従が苦渋の選択をしたように豊臣家もまた、新しい時代に応じた変化を遂げねばならない。
しかし、故太閤秀吉時代の栄華にすがる淀殿には、そのあたりの政治感覚が哀しいほど欠如していた。
淀君が政治判断の出来ない、世間知らずの我侭ものであったと言うのが、歴史の通説ですが、そうとばかりは言えないような気がします。
取り巻きが悪すぎた。情報源が悪すぎた。自滅へと誘い込む家康の手に翻弄された、そういう女社会の悲劇でしたね。
片桐且元と言う政治の分かる人間がいたのですが、それを遠ざけてしまったのは大野治長の母・大蔵卿の局など、旧浅井家出身の女たちでした。彼女たちにしてみれば、豊臣家などと言うものは、単なるヤドカリの貝であって浅井家の復興が出来たと思っていたのです。
片桐且元をはじめ、加藤清正、福島正則、浅野行長などは家康の犬くらいにしか考えていません。清正などは「イザとなったら熊本に秀頼を移し徳川と一戦する」覚悟で、熊本城に秀頼の御座所まで作っていたのに、全く疎遠にされてしまいました。
最近、熊本城の本丸御殿が復元されたようですが、質実剛健を旨とする清正の住居らしくありません。京風の雅で、豪華な造りです。豊臣家を代表する忠実な武将で、最も秀頼を大切にしていた清正を「敵だ」と勘違いしていたのですから、どうしようもありません。
大阪の陣になっても、最も信頼すべき真田幸村、後藤又兵衛を疑っていたのですから、自滅としか言いようがなかったですね。
清正は、家康が用意した毒饅頭を食って死んだ…という説がありますが、死因は癌だといわれています。毒饅頭を用意したとすれば、むしろ、大阪城の女たちのほうが怪しいくらいです。ともかくも、秀頼毒殺を警戒するあまり、御曹司を一度も大阪城外に出さずに育てたのが大間違いでした。
過保護、過管理、過干渉・・・現代の母親たちも、淀君の悪口は言えませんね。
自分たちも、淀君のまねをして、大事な息子を骨抜きにしているのです。こういうモヤシっ子を部下に持つと大変です。理屈ばかりで行動が伴いませんからね。
112、兼続は、商工業の振興、鉱山開発など、やれることは何でもやった。このため、上杉家の実収は、30万石から50万石に膨らんだ。
のち、米沢藩には「上杉鷹山」という、藩政改革によって財政の建て直しを行った名君が出るが、その鷹山が心の師と仰ぎ、政策の手本としたのがほかならぬ直江兼続であった。
ともかく、兼続は財政に熱中します。千石取りの高給取りが三百石になっても食うに困りませんが、十石取りが三石では食うだけで精一杯です。士分の者は餓えませんが、足軽、中間と言われる下級藩士は収入がゼロになります。景勝はリストラをしませんでしたが、士分の侍に雇われていた足軽雑兵は、軒並み解雇です。彼らは、現代の派遣社員、臨時工みたいな立場ですからね。
そうさせないために…、兼続は産業振興をするしかありません。
新規事業開発は、言うほどやさしくはありません。十やったら七つは失敗し、二つが細々生き残り、成功するのは一つくらいでしょうか。
兼続が始めた新規事業は、驚くべき成功率でした。半分ほどは成功しています。
まずは、ソバを植えます。これは荒地でも育ちますから当座の食料源です。
さらに、山国に不足しがちな蛋白源として、鯉の養殖を行います。
次に故郷の越後の名産であった麻を作ります。これも、栽培ノーハウを知ったものが多いので成功します。金を稼ぐほどではありませんが、住民の衣服は自給できます。
山野に自生する漆を大々的に栽培し、塗り物を作ります。これは江戸で評判になり、大いに外貨を稼ぎました。
さらに、大ヒットだったのが紅花の栽培です。赤や黄色の染料は貴重品ですから、染料としても輸出できましたし、自国内で取れる麻や生糸を染めて、米沢織りというブランド商品につなげました。
開墾してそばを作り、傾斜地を均して田にします。米の作り方、育て方は、地元の百姓の長老を集めて、最も収量の多くなる作り方を聞き出し、それを侍たちが本にして、領内の農家すべてに教育します。農業学校とも言うべき寺子屋が、領内の至る所に開設され、農閑期には身分に関係なくワイワイガヤガヤと知恵を集めて教科書を改変していきます。小集団活動、プロジェクト活動そのものですね。
貧乏が、身分制度の壁を乗り越えて、領民全体が一つの目標に集中します。
このあたりの人心集約が、景勝、兼続の凄いところでした。
その後、吉良家から迎えた藩主が、江戸で浪費を繰り返して、またしても貧乏になりますが、ノーハウは上杉鷹山に引き継がれて、再々建します。
113、対面のあと家康は
「秀頼は賢き人なり。なかなか人の下知など受くべきにあらず」
と、秀頼の人物を評している。
成長した秀頼は、人間通の家康の目に、容易ならざる敵として映った。秀頼を生かしておいては、幕府の行く末に禍根を残す。
清正の身を挺した説得で、ようやく、二条城で家康と秀頼の対面が実現します。
「秀頼が暗殺されるから絶対にダメ」と、大騒ぎをしたのは大蔵卿の局など取り巻きで、淀君自身は清正、正則の説得に、「目から鱗」のように納得しています。
情報が偏っていたんですね。大阪城と言うサザエの貝殻の中で、疑心暗鬼ばかりが自己増殖していたのです。井の中の蛙といいますが、井戸端会議の雀たちも、現実が見えなくなるのです。会議ばかりしていると、市場が見えなくなり、愚策を繰り返します。
対面は大成功でした。清正や寧々は「ほっ」と胸をなでおろしますが・・・
家康は成長した秀頼に圧倒されます。思っていたほどヤワではなかったのです。自分の目の黒いうちは身動きをとらせないが、秀忠では危ない…と観察しました。
実際に、家康の五男・忠輝は秀頼を利用した、謀反の構想を暖めたのです。秀頼だけでなく、秀頼を利用しようとするものが現れるに違いない、と判断します。
清正、正則、前田、島津、毛利、真田… 敵になりそうな顔ぶれは強敵ぞろいですからね。
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