雪花の如く
第42編 天地人
文聞亭笑一作
狸親父・家康のしたたかさ、偉さは、悪逆非道の罪を、自分ひとりで被ってしまおうと、悪の限りを尽くしたことでしょうね。豊臣家に対するイジメ、言いがかりなどは、現代の法律、道徳律で言えば、とんでもない話ばかりです。
それを。敢えてやってまで、目的を貫いたと言うところが非凡なのです。
ただし、その目的が「政情安定・平和」と捉えれば、ノーベル平和賞ものです。立派です。
一方で、その目的が、「徳川家の身内の繁栄」であれば、とんでもない大悪人です。
歴史小説と言うのは面白いもので、双方の立場で、全然違ったストーリになります。
山岡荘八は前者の立場ですが、司馬遼太郎、池波正太郎などは後者の立場でしょうか。
原作の、火坂雅志は、そのどちらでもない立場で、兼続になりきって書いていますね。
そこらあたりの、中立性、民主性が現代に受けたのではないでしょうか。
文聞亭はどっちだ?! この質問にはノーコメントでいきたいのですが、家康的生き方は大嫌いなのが文聞亭です。今回のドラマで家康役の松方弘樹は、実に好い演技をしていますね。これ以上いやらしい奴はいない、というほどの名演技です。
家康が狸なら、秀吉は狐。人を化かさないと天下は取れません。
先日、鳩では、まず取れなかったであろう天下を、岩手のガマ蛙が取らせましたからねぇ。
その結果がどうなるのか? 百年後の歴史にゆだねましょう。
114、おそらく、政重を背後で動かしている佐渡守は、上杉家には差し迫った危険がないと判断し、大阪城の豊臣家に近い大名家のどこかに送り込もうと言うのであろう。
すなわち、それは徳川が豊臣討伐を決意したことを意味している。
再び戦雲が近づいていた。
家康が豊臣秀頼を怖れていたのは、秀頼本人ではなかったと思います。大阪城から一歩も出たことのない、モヤシっ子の若者などは眼中にありませんが、最も怖れていたのは加藤清正を筆頭にする秀吉シンパの大名たちだったと思います。
加藤清正は虎退治の勇将として、我々世代までは一つの憧れでした。鯉幟と並んでの武者幟の図柄では、人気No1でしたよね。その清正が、突然死にます。
そこまで猫を被っていた家康が、いよいよ表立ってイジメを始めます。
加藤清正の死因は食中毒と言うことになっています。
毒饅頭…などという俗説がありますが、池波正太郎は、砒素説を取っています。和歌山の毒カレー事件ではありませんが、一度に大量を摂ったら即死ですが、微量を摂り続けたら胃がんのような症状で死にます。秀頼を迎える城、熊本城も、不発弾に終わってしまいました。
ついでに、復元なった熊本城、本丸御殿の写真を付け加えておきましょう。
大阪城の雰囲気と、寸分変わらぬ豪華さです。
ここに、秀頼を迎え、家康から守ろうとした清正の思い、悲しいほどです。
250年後に熊本城を攻めた西郷隆盛が
「おいどんは、明治政府軍に負けたんではなか。
清正どんに、負けもした」と言わせた城です。
(熊本在住の今坂育雄氏から、右欄写真をご提供いただきました。)
115、本多政重が秘蔵していた書物に「治国家根元」というものがある。
これは表向き政重の父本多正信の言葉を記したものと伝わるが、実は義父・直江兼続の政治思想を書きとめたものである。
「民を憐れむこと」の章には
―― 天、その生まれる所を愛し、なお父母その子を愛す。故に、民を愛せば、必ず天の報いあり。―― と記されている。
政重もまた、兼続から大いなる感化を受けた一人であった。
米沢を去った本多政重は、加賀・前田家に執政として転属していきます。転勤先が前田家になったということは、家康は前田の向背を心配していたということでもあります。
この時、前田家ではバカ殿の演技をしていた利長が死に、三代目の利常に政権交代したばかりです。豊臣とは、秀吉・利家の盟友関係もあって、最も近しい関係にありました。
大阪との距離も近く、北陸道は東海道と違って警戒網も整備されていません。
さらに、その所領は百万石と全国で最大の規模ですから、警戒されて当然なのです。
本多政重と兼続の関係は決して悪くありませんでした。全面的に信頼してくれる岳父の兼続を、かえって重荷に感じていたのかもしれませんね。
政重の妻であった兼続の長女・お松は早世してしまいましたが、後添えには弟の大国実頼の娘・お虎を娶せています。このあたりにも、兼続の思いが色濃く出ていますね。
それだけに、政重も感化されたのでしょう。
―― 天、その生まれる所を愛し、なお父母その子を愛す。故に、民を愛せば、必ず天の報いあり。――
この作品のテーマである「天地人」そのものが、政重の言葉で噛み砕かれています。
この言葉はさらに、近江商人に伝わり「三惚れの教え」として現代にまで引き継がれています。
近江商人いわく
売り物(自分の扱う商品・技術)に惚れよ…惚れ込むような商品を作れ、仕入れよ
商いを行う土地に、土地柄に惚れよ …自分の商圏に集中せよ、浮気するな
お客様や、出会う人すべてに惚れよ …お客様第一、惚れてこそ愛される
惚れるということは、好きになる程度のことではありません。命を預けるほどの思い入れがないといけません。なかなかにできないことです。
政重は宇喜多(岡山)→福島(清洲)→大谷(福井)→上杉(米沢)→前田(金沢)と、転勤・転属の繰り返しですが、戦国時代は、高度成長期のころと同じく、転勤の多い時代でした。本多政重のような例は、それほど珍しいことではなかったのです。
転勤した先の土地柄、領民に惚れないと、なかなか成功はおぼつきませんね。
116、政宗は言う。「このような良き所に生まれたら今頃は天下を取っていたものを」と。
「さて、それはいかがか。戦の天才と言われた謙信公でさえ、京に旗を立てることは叶わなかった。天下取りとは、天の時、地の利、人の和が整ったとき、初めて成し遂げられるものではござらぬか」
「天の時、地の利、人の和か・・・」
政宗が彼方の雪山を仰いだ。
家康の天下普請はいたるところで展開されています。
越後に秀吉が堀秀治を入れていたのですが、治世が治まらないのを理由に追い出して、自分の五男である松平忠輝を、七十五万石の太守として川中島から移封します。
謙信以来の春日山城は手狭だというので、高田の地に新しい城を築かせます。
この総奉行に任命されたのが伊達政宗で、手伝いに駆り出されたのが前田、上杉、石川など近隣の大名たちです。さらに、忠輝の家老が、佐渡などの金山奉行、関東総奉行を兼ねる大久保長安でしたから…、後の長安事件のメンバが集まっていましたね。
「天の時、地の利、人の和か・・・」政宗が彼方の雪山を仰いだ。
こうつぶやいた伊達政宗の胸中には、何が去来していたのでしょうか。
「生まれてくるのが遅かった。東北はあまりにも遠すぎた」などという愚痴っぽいことは、全く考えていなかったと思います。むしろ
天の時とは・・・家康が死んだとき。
地の利とは・・・秀頼を追い出した後の大阪城に、娘婿・忠輝を入れ西国を押さえること。
人の和とは・・・越後高田の築城に集まっている大名たちを懐柔し、家康死後の忠輝派を組織すること、秀忠批判の多数派工作を進める
というポスト家康の設計図ではなかったでしょうか。娘婿である忠輝を傀儡将軍につけ、その家老である大久保長安を金庫番に置き、将軍の取り巻きは片倉小十郎以下の腹心で固める……。現代日本のどこかの党の、蝦蟇蛙みたいなおじさんが考えることと似ています。
天地人も、この言葉を利用して使う人の思惑次第で、多様に変化します。
野党になった旧・政権党では「天地人」をどう考えているのでしょうか。
まずは人の和でしょうね。派閥単位で動いているようでは、期待薄です。
マニフェスト不況が深刻になる前に、体制整備をしてほしいものです。
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