雪花の如く 第13編 後継者
文聞亭笑一氏作”雪花の如く”を連載します。NHK大河ドラマ「天地人」をより面白くみるために是非ご愛読下さい。
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「雪花の如く」紹介ページ
各編と配布月日
第28編:07月23日号
第27編:07月16日号
第26編:07月09日号
第25編:07月02日号
第24編:06月25日号
第23編:06月18日号
第22編:06月11日号
第21編:06月04日号
第20編:05月28日号
第19編:05月21日号
第18編:05月14日号
第17編:05月07日号
第16編:04月30日号
第15編:04月23日号
第14編:04月16日号
番外編 :04月09日号
第13編:04月01日号
第12編:03月21日号
第11編:03月21日号
第10編:03月12日号
第09編:03月04日号
第08編:02月25日号
第07編:02月18日号
第06編:02月11日号
第05編:02月04日号
第04編:01月27日号
第03編:01月21日号
第02編:01月14日号
第01編:01月07日号

雪花の如く

第13編 後継者

文聞亭笑一作

「万々が一のときは上杉を頼れ」というのが、信玄の遺言でした。 川中島で5度にわたり死闘を繰り返した信玄と謙信ですが、互いの実力は認め合っていたのです。勝頼も、世に言われるほどの驕慢児(きょうまんじ)ではなく、頭の良さと、父親に対する尊敬の念が強い人でしたから、この遺言は強く意識していました。更に、父の重臣の中で僅かに残った高坂弾正、真田昌幸などは、越後の上杉と交流があります。

勝頼にとって越後の内乱は、長篠で織田に叩かれた傷を癒す絶好の機会でした。条件さえ折り合えば、交渉に応ずる気持ちがあったのです。勝頼にとって、上杉の跡目は景勝でも、景虎でもどちらでもよかったのではなかったかと思います。先に交渉に来たほうと手を結ぶ、そんな余裕すらあったと思います。首班指名のキャスティングボードを握った黒幕、そんな役回りです。 景勝と手を組めば、北信濃を手に入れ、織田、北条を牽制できる。 景虎と手を組めば、北信濃を手に入れ、北条に恩が売れる。 どちらも損のない取引です。どちらと組んでも北信濃は手にはいると算段していました。 ともかくも武田にとっての敵は織田信長であり、その同盟者の徳川家康です。 上杉も、北条も、おとなしくしていてくれるのが良いことなのです。

この時点で信長は武田攻略を家康一人に任せ、北陸道を柴田勝家、前田利家に進軍させ、 丹波から山陰に向けて明智光秀、山陽道を羽柴秀吉に進軍させていました。唯一恐れていた謙信が死んだことで、東への脅威は全く感じていなかったのです。 「武田など、家康一人で十分」と安土に大天守閣を建てる建築作業に没頭していました。

28、「生前、不識庵様は申されていた。生中に生なく、死中に生あり。死んだ気にならねば、何事もなしえぬ」
「生きて帰ろうと思ってはならぬということか」
「そうだ」
「お前という奴は・・・」

武田方で交渉に臨んだのは信濃・海津城主の高坂弾正です。信玄時代から参謀として川中島を戦い抜いた智謀の人です。勝頼の側近の中では唯一、戦略がわかる人材でした。 余談になりますが、信玄時代の武田軍団には3弾正と呼ばれた信濃勢がいました。

逃げ弾正と、退却戦のうまさを称えられたのが…高坂弾正

攻め弾正と、機略、奇策を十二分に発揮したのが…真田弾正幸隆。幸村の祖父です。

槍 弾正と、白兵戦の強さをうたわれたのが…保科弾正、伊那・高遠城主です。

後に保科弾正は徳川2代将軍・秀忠に厚く信頼され、秀忠の隠し子を養子として預かったり、大奥の妾が問題を起こすと高遠に預けたりしています。 秀忠からあずかった養子・保科正之が兄の徳川家光から絶大な信頼を受け、大老になり、後の会津藩の藩祖となっています。

生中に生なく、死中に生あり。 重たい言葉ですねぇ。現代にも「死中に活あり」として安岡正篤の六中観に伝えられています。  「死んだ気になって」と簡単に口にしますが、死ぬことなどは、そう易々とは出来ません。

我々、戦争を知らない世代は、死の恐怖を感じる機会がほとんどありません。心臓発作を起こした経験者なら、おありかと思いますが…、死ぬのは嫌ですね(笑) 現代用語で「死んだ気になって」というのは物理的、生理的に死ぬことではありません。

「自分」というアイデンテティーを捨てることを言います。肩書き、略歴、功績、プライド、夢、希望…そんなものを捨て去るのが「死ぬ」ことなのです。

ところが…、これを、なかなか捨て切れないのが凡人です。定年で会社を放り出されても、「元・○○社の○長」などと自己紹介したりして、過去を引きずります。

夫婦喧嘩一つにしても、亭主の権威、稼ぎ手の意識などが先にたって、喧嘩をこじらせてしまいます。ましてや商談、交渉ごとになれば、さまざまな思惑が入り乱れて収拾が付かなくなります。「死んだ気になって」捨ててしまうことを、悟りというのでしょうか。 「死んだ気になった」兼続の交渉で、高坂弾正から「受諾」の約束を取り付けました。

・・・が、勝頼のお気に入りの近臣、跡部大炊、長坂長閑斎などが目先の利益に欲をかき、 交渉を白紙に戻します。金1万両の追加条件と、跡部、長坂への賄賂金で、何とか交渉を妥結させました。

29、上杉、武田の越甲同盟は、日を追うごとに絆が強まっている。
まだ妻のなかった景勝と、武田勝頼の妹・菊姫の間に婚約が成立した。
この動きを見た越後下郡の揚北衆が、我も我もと景勝方に靡き、忠誠を誓った。

景勝、兼続にとっては、窮余の一策として仕掛けた武田との提携でしたが、武田にとっても上杉との同盟は願ってもない話でした。信玄の時代に広がった武田の支配地は、織田信長と徳川家康によって、徐々に簒奪(さんだつ)されつつありました。飛騨を失い、木曾との境や、三河との境や、駿河でも劣勢に立っています。上杉との同盟は、むしろ、武田方から申し入れたいほどのことでした。提携をより強固にしたいため、菊姫と景勝の婚礼は武田からの申し入れです。 こうした政治的動きを観察して、日和見をしていた連中がいっせいに景勝方になだれ込みます。武力的な均衡が破れて、一気に勝負が付いてしまいました。 日和見するという行為は卑怯にも見えますが、それが人の世です。普通です。

現代の政治でも、商売でも、皆「勝ち馬に乗る」ために戦々恐々としています。 「戦略」とか、「情報化」とか、言葉を飾りますが、所詮は日和見をすることです。 辞書を調べたら「卑怯」とは、もともと「比興」という漢字を当てていたものが、いつの時代からか、卑怯に替わったようですね。他人の争いごとを観客席から見比べて興じるというのが本来の「ひきょう者」の意味だったようで、評論家先生方のことを「ひきょう者」と言っていたようです。当てる漢字によって意味が変わっていく、これも日本語の面白いところですね。日和見も、もともとは農耕上の重要な技術で、これを間違えると収穫が得られません。株の売買だって…日和見そのものです。

30、なに、景勝殿はそなたの実の兄じゃ。道満丸は血を分けた甥ではないか。
案ずることはない。必ず、良きように取り計らってくれよう。

御館の乱の終末は悲惨でした。 ひょっとした手違いで、景勝の数少ない身内が殺されてしまいます。 道満丸は隠居の上杉憲正に連れられて、春日山城へ向かいます。

憲正としては降伏の使者を送り届けるつもりですし、自分は中立の立場だと思っていますから、全くの無警戒でした。「謙信の父親である」という権威が通用するはずと、信じ込んでいました。孫たちが家督争いをするのを傍観する姿勢でしたね。

一方、兵士たちから見れば、敵の本拠地にいた敵方の大将の父とその孫です。敵の黒幕として、景勝に逆らった謀反人の片割れとしか見ていません。 関所の警備に当たっていた兵たちが、「問答無用」と刺し殺してしまいました。 それを聞いた景勝の妹・華姫も、希望を失って自殺してしまいます。

思い込みというのは、時に大きな悲劇の元になります。歳をとればとるほどに、思い込みが強くなって「・・・の筈」「・・・に違いない」「・・・のつもり」などと、発想が固定化していきます。必要な根回しもせず、唐突な行動をしますから事故の元です。 最近多発する高速道路の逆走事故、これもその一種でしょうか。出口を、入口と信じ込んでいますから紛れ込んでしまいます。

上杉という家系は明治に至るまで続きますが、その後の300年の間も養子縁組ばかりです。忠臣蔵に出てくる上杉の殿様も吉良からの養子ですし、上杉鷹山も養子です。 血縁の薄い家系だったのかもしれません。

先日、兼続の有名な「愛の兜」を見ようと米沢に行ってきました。上杉神社の宝物館に飾られていましたが、兜の前立てというものは、思っていたより薄っぺらなものですね。 上杉神社は、謙信、景勝、兼続たちよりは後の時代の上杉鷹山の事跡のほうがたくさん残っていました。右の写真もその一つです。

【NHK大河ドラマ「天地人」をより面白く見るために!】
時代に生きる人物・世相を現代にあわせて鋭く分析した時代小説、ここに登場。
上杉神社は、謙信、景勝、兼続たちよりは後の時代の上杉鷹山の事跡のほうがたくさん残っています。この写真もその一つです。
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