雪花の如く
第21編 猿面冠者
文聞亭笑一作
賤が岳の戦いに勝利し、逃げる勝家を北の庄城に追いつめた秀吉は、勝家の一族を掃討して北陸道の鎮圧をしつつ、越後に迫ります。
富山城には佐々成正が秀吉に敵意をもって控えていましたが、秀吉軍の圧倒的な兵力と、前田、金森、不破などという、昨日までの味方に説得されて降伏します。
プライドの高い佐々にしては、秀吉の軍門に下ることは死ぬより辛かったのでしょう。
尾張では一城の主であったものが、百姓上がりの足軽に頭を下げるのです。尾張での序列を意識している成政には、耐えきれない屈辱でした。
成政は、その後も秀吉に敵対する徳川家康と提携しようと、冬の立山越えを敢行しますし、秀吉の命令には抵抗を続けます。名門の血が、秀吉という新勢力の台頭を許せなかったのです。
現代に生きる我々からすれば 「何を下らんことに…」とも思いますが、よくよく考えてみると、佐々成政と同じ心情で、政治が動いていることに気がつきます。
最低単位としては家長、「父親の権威」みたいなものにこだわり、親戚筋では本家、分家などという意識が存在します。さらに、町内会などでも旧家とか、庄屋筋とかで町内の役割が決まり、お寺の世話人、神社の役員も余所者には勤まりません。
町内会が集まって市会議員、県会議員、国会議員とピラミット構造で政治に参画します。これを地盤といいます。地盤、看板、カバン…国会議員に世襲が多いのは、いまだに名門の意識が色濃く残っているからです。
地方だけではありませんよ、東京のど真ん中にだって残っています。
むしろ、マンション住人や、大型宅地開発をした新興住宅街の方が例外なのです。
そこのところが分からずに、内閣や国会議員を批判するのは筋違いでしょうね。
世襲禁止を打ち出した野党だとて、トップは世襲議員で固めています。
55、秀吉の行動は、賭けに近かった。
相手の懐に飛び込む危険を冒し、それによって、こちらの心を開かせ、同時に景勝の顔を立てようとしている。すべて計算ずくだとすれば、驚くべき人間通だ。
相手が何によって動くのか、秀吉は知っている。
利で動く者には利を与え、義で動く者には義をもって接する。
佐々成政を降伏させた秀吉は、上杉への調略にかかります。
秀吉にしてみれば、北陸道を越中まで制圧すれば目的は達したのですが、「ついでの仕事」と越後にも仕掛けてきます。戦端を開く気は全くありません。ダメモト気分でしょう。
「ちょっと、そこまで来たからついでに…」という気楽さなのです。
もちろん、したたかな計算が働いています。「上杉には欲がない」「政権担当能力もない」と見切っていますね。信長のそばにあって、謙信の行動をつぶさに分析していた情報処理能力こそが、秀吉の真骨頂なのです。さらに、謙信・景勝の系譜は「義」の名のもとに、将軍や朝廷という権威に弱いことも計算に入れています。
小説「天地人(火坂雅志)」では公家たちの動きには一切触れていませんが、事前に公家筋から情報を入れさせていたはずです。つまり、「正親町天皇の意を受けた官軍が北陸征伐に来たのだ」という筋目を伝えていたと思われます。誰が使いをしたのか? 記録には残っていないようですが、然るべき公家が仲立ちしているものと思われます。
この時点での秀吉の官位は、まだ、筑前守・従五位の下で、景勝の弾正忠と差はありません。同格です。ですから、呼びつけるのではなく、出向いたのです。
朝廷から見れば同じ資格ですが、一方は右大臣の後継者として天皇をバックにしています。対する景勝は田舎大名です。関東管領という幕府の役割は受け継いでいますが、すでに、信長時代に幕府は消滅してしまっていますから、過去の役割です。何の意味もありません。
わずか数名の供をつれただけで乗り込んでくる、このあたりの度胸は大したものです。
計算しつくしていたとしても、万が一のリスクがありますから、なかなかにできないことです。やはり、現場からの叩き上げによる修羅場体験があればこそ、ですね。
最近では北朝鮮に乗り込んでいった小泉純一郎がこれに近い行動だったでしょうか。
青いリボンを胸につけるだけで、なかなか乗りこめない連中が多いから、拉致問題も一向に前進しません。
56、真田軍の勝利は、天下の諸将を驚かせた。羽柴秀吉と天下を争う徳川家康の軍勢を相手に、一歩も引かず、かえって敵に大損害を被らせたのである。
真田、恐るべし・・・
春日山城の兼続は、夕映えに染まる空をにらんだ。
池波正太郎の真田太平記などでは、真田軍の作戦を実に鮮やかに記述しています。
鮮やか過ぎて、嘘みたいな展開ですが、どうやらそれに近い戦闘だったようです。
一つには、徳川軍の油断がありました。真田軍3千に対し、その4倍の兵力で侵攻するのですから、降伏勧告だけで済むと考えていたようです。事実、降伏勧告に対して、真田は「城内の掃除をするから」と時間稼ぎをしています。
戦国時代の戦いで城を攻める場合は2倍の兵力で互角、3倍の兵力なら落とせると言われていたようです。4倍ですからね、3日も持つまいというのが常識です。
しかも、城を無傷で明け渡すというのですから城下も焼いてはいません。伏兵が潜む場所はいくらでもあります。更に上田城の立地が千曲川の河岸段丘の上にありますから、裏山は森林地帯で、山の上には砥石城があり、さらに奥は真田の庄です。複雑な地形を熟知している真田と、観光気分の徳川軍では、数では測れない戦力の差があります。
そこへ、予期せぬ奇襲です。しかも、同時多発テロよろしく、あちらでも、こちらでも散々にやられています。指揮系統が乱れてしまうのは当然で、同士打までやってしまいます。
もう一つ、いつ、海津城から上杉の援軍がやってくるか?その不安も大きかったのです。
徳川にとって上杉は伝説の軍団です。あの、信玄ですら勝てなかった謙信の軍が来たら…という恐怖感を持っていましたね。
やりたいようにやられて…野球でいえばコールドゲームの有様でした。
真田の奇襲に懲りた徳川軍は、上田を遠巻きにして長期戦に入りますが、ある日突然、嘘のようにいなくなりました。何もできずに撤退してしまったのです。
そうです、石川数正の裏切り、豊臣方への脱走事件で、真田どころではなくなってしまったのです。何ゆえの裏切りか…この点は拙著「煩悩の城」をお楽しみに。
57、春日山城の三重櫓には、謙信が生前にしたためた壁書がある
「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にある。
何時も敵を掌中に入れて合戦すべし、傷つくことなし。
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。
家を出(いずる)より帰らじと思えば、また帰る。帰ると思えば、これまた帰らぬものなり。
不定とのみ思うにたがわずと言えど、武士たる道は不定と思うべからず。
必ず一定と思うべし」
この言葉を胸に、景勝、兼続の主従は上洛の旅に出ます。上杉の命運をかけた正念場です。
この言葉…、現代の企業に当てはめて読んでみます。
物事はやってみなければ分からない。臨機応変の判断こそが肝心だ。
守るべきものは方針、目標であり、結果は部下の働き次第だ。
受け身に回ることなく、常にこちらから仕掛けていれば、負けることはない。
欲を捨てて、必死にやれば結果が出るが、結果にこだわると失敗する。
現状維持は退歩であり、改革を進め続けない限り進歩はない。
世の中のことは変化が激しくて、一寸先は闇だが、そのような変化に気を取られていてはいけない。正しいことをやるのに、環境の変化などは問題ではないのだから。
相当な意訳(違訳)ですねぇ(笑) まぁ、元々が漢文で、それを誰かが意訳して、またまた訳すのですから、丸が三角にもなります。ご勘弁を。
秀吉にとっては「無欲」というほど扱いにくいものはなかったでしょうね。
商売感覚の強い男ですから、利益供与で動く相手を得意にしていました。特に、京都朝廷の公家に対する工作は見事なものです。策士、近衛前久などは、秀吉に手玉に取られて、豊臣政権の走狗になっています。
人使いのうまさ、これこそが秀吉の真骨頂でしたね。
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