雪花の如く
番外編(第13編の続き) 越後のリストラ
文聞亭笑一作
NHKのストーリ展開が、急に緩やかになってしまいました。原作のペースで書き進めていたら、随分と先に進んでしまいそうです。「追っかけ」としては、ペースを合わせないと、読者の興味が薄らぐのではないかと、一週分、余計なことを差し込んでみることにします。
御館の乱、「乱」といいますから、為政者に対する反乱という意味ですね。
乱が始まった時点では、景勝、景虎のどちらが為政者になるのか分かっていませんでした。
乱というよりは、後継者争奪戦としてはじまったのですが、戦後、勝った方の景勝が命名しましたから「乱」で、景虎は為政者に反逆した悪者になります。
一方で「変」というのは、突発的事件で、善悪の定かでないものを言うのでしょうか。
歴史の中に登場する「戦」「乱」「変」…理屈を考えだすと、「?」ばっかり出てきます。
NHKは女の悲しみ、強さなどをテーマに、戦国の女性と現代の女性を対比するような形でストーリを追いかけますが、政治という側面から追いかけると、別の世界が見えてきます。景勝のやったことは政治改革、構造改革、リストラなのです。
もうひとつ、戦国時代を代表する言葉に「下克上」がありますね。
下克上…部下が上司を倒して、その地位を奪うこと=悪いこと
というイメージで教科書に載っていますし、先生からもそう教わりました。
しかし、政権交代のことですよね。それまでの為政者が、組織員の信用を失ったから、
代わりの者が代表を務めることになっただけです。現代の、社長交代とたいして違いはありませんし、部下の信用を失うようなリーダは、早く代わった方が良いのです。
さて、リストラを「首切り」と訳したのは、バブル後のマスコミや知識人ですが、リストラとはリ・ストラクチャリング(Restructuring)の短縮形で、構造改革のことを言います。
企業再構築という意味が本来で、不採算部門を切り捨て、成長分野、収益部門に資源を再配置することです。その過程で、配置転換先の見つからない場合に、人員整理をすることもありますが、それはリストラの一部だけのことです。
そうは言っても、すでに日本語では
リストラ…俗に、退職させること、人員整理、首切り
と辞書に載ってしまいましたから、辞書の通り、首切りのことで、いまさら語源をたどっても仕方がありません。
景勝のやったことは、まさしくリ・ストラクチャリングでした。越後という事業体を、
根本から変革させたのです。
鎌倉、室町、戦国前期から続く守護、地頭体制を破壊し、
中央集権体制を構築し始めたのが、景勝の組閣でした。
鎌倉以来、土地と武士団は一つのセットになっています。武士団が土地から離れて、他の土地に移り住むということはありません。陣借りする相手、誰の下に付くかは自由に選びますが、転勤して別の土地に動くということはありません。
組織の成長期には本領以外に土地をもらうことも多かったのですが、あくまでも本領は維持したままです。
景勝にしても、本領はあくまでも上田、坂戸城で、春日山は赴任先です。
なぜかといえば、武士といっても百姓だからです。農業が経済の基本で、農民は決して土地を離れません。当然で、農業の資本は土地と人なのです。農作業は、農繁期に多くの人員を組織化しなくてはなりません。田植え、稲刈りは集落の長(おさ)が指揮した組織行動です。この長(おさ)が、集まって村ができ、村を束ねて武力集団を作ります。
これが武士なのです。
職業軍人のようでいて、実は百姓の「親方」なのです。お館、お屋形などという字を当てますが、親分、頭領、ボス、自衛消防団長、町会長と同じ意味合いです。
この構図を、早くからリストラして、武士を職業軍人にしてしまったのが信長でした。
これは、革命的な出来事です。
しかも、それまでは武士にはなれなかった商人、工人、狩猟民などが続々と信長のもとに集まってきます。
特に狩猟民は戦士としては優秀でしたね。山で獣を追いかけていたのですから運動神経は抜群です。忍術、偵察活動などはこういう人たちの得意技でした。
また、商人出身者は他国への情報網と、情報の扱い方は抜群でした。
織田信長の強さの秘密は、的確な情報管理にあったとも言われています。
秀吉が織田軍の中で台頭したのも、この種の商工民をうまく使い切ったからです。
戦国最強と言われた、甲斐の武田信玄軍団も、越後の上杉謙信軍団も、鎌倉体制のままの農民軍でした。土地にへばりついています。
武田軍団の強さを語る言葉に「人は石垣、人は城」があります。
農民一人一人を石になぞらえ、末端の百姓から順次、石垣を積むようにボトムアップで構築していったのが、武田の軍制です。
それに対し、信長の軍制は徹底したトップダウンです。武力と強制力で有無を言わせず、組織を縛り付ける方式です。いわゆる、軍隊組織ですね。
武田が中世的軍団の代表とすれば、信長は近世的軍団の代表でした。
日本企業と米国企業に当てはめてみても面白いですねぇ。似たところがあります。
文聞亭などは典型的日本企業から、アメリカ企業に移った時に、いやというほどその違いを味合わされました。ニューヨークから派遣されてきた「本社の印籠を持ったインド人」が信長か、石田三成に見えましたねぇ(笑)
まさに、異人種、異文化でした。
景勝、兼続は、信長ほどには徹底しませんでしたが、中央集権を目指します。
それまでの地方豪族が取り仕切っていたムラに、中央からの官僚を送り込んで、中央集権を目指します。御館の乱で、景虎方に回った領主の持つ城へ、次々と上田以来の部下を送り込み、ムラ的組織を破壊します。既得権益をはぎ取ります。
そういえば、小泉改革と呼ばれたものも、似た側面がありました。
代議士になるには地盤、看板、カバンという三つ揃えがありますが、地盤というのは地元への利益誘導で成り立ちます。看板とは政権公約、建前の立派さでしょうか。カバンは集金機構ですね。
小泉チルドレンといわれる人たち、あの人たちには地盤がありません。カバンもありませんね。あるのは「郵政民営化」という看板だけでした。
本能寺の変ではありませんが、小泉信長が引退したとたんに、与野党あげて、与党の総理大臣まで「民営化見直し」発言が相次ぎます。担当の総務大臣は「文化財保護だ」と改革にブレーキをかけます。
改革とは難しいものですね。
ともあれ、景勝が選んだ道は正しかったと思います。
武田軍は、石垣が崩れだしたら、とどまるところを知らずに崩壊してしまいました。
上杉とて、旧体制のままであれば、信長の後を継いだ秀吉の侵攻に耐えきれなかったと思われます。兵農分離がある程度進んでいたからこそ、後の会津移転、米沢移転の大移動ができたのです。ぎりぎりのタイミングで近代化に対応した結果で、上杉の屋台骨を保つことができたと思います。
景勝は無口で、政治的決断はそのほとんどを兼続がやったように描かれていますが、こと、人事に関しては、景勝が自ら選んだと思います。兼続の弟・与七を抜擢して小国家の養子にし、城主にするなどということは、兼続ではできるはずがありません。
あまたいる先輩たちを無視して、上田以来の仲間を城主に抜擢することも、景勝でなくてはできません。
必要な時に、必要な決断だけをし、あとはNo2の兼続に全面委託するという…東洋的君主の理想像を実践した人のように思います。
余談のついでに、
新潟県にしても、会津、米沢にしても、兼続フィーバはすごいですねぇ。
なにせ10年以上前から「大河ドラマ誘致プロジェクト」というものが結成され、歴史上の人物を主役にした物語の中で、町おこし、村おこしをしようと計画するのだそうです。
たまたま、直江兼続の本拠地・与板出身の友人がいるものですから、古い資料を借用することができました。平成10年に、童門冬二を呼んで「いかにして大河を呼ぶか」という講演会の、講演録が手に入りました。すごい熱気です。
呼ぶための秘訣は、「時代のニーズに合う物語」だそうです。
とすると…現代はどういうニーズなのでしょうか。
過疎の地方で、地場産業を起こして、地方を活性化させた兼続の手腕、
「義」の廃れた現代に、義を貫いた景勝と兼続、
二人の信頼関係の素晴らしさ
「愛」が希薄になった現代に、人間愛を呼び戻そうとする意図
どれでしょうかねぇ。見る人次第でしょうが…。
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