雪花の如く 第14編 高遠の桜
文聞亭笑一氏作”雪花の如く”を連載します。NHK大河ドラマ「天地人」をより面白くみるために是非ご愛読下さい。
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各編と配布月日
第28編:07月23日号
第27編:07月16日号
第26編:07月09日号
第25編:07月02日号
第24編:06月25日号
第23編:06月18日号
第22編:06月11日号
第21編:06月04日号
第20編:05月28日号
第19編:05月21日号
第18編:05月14日号
第17編:05月07日号
第16編:04月30日号
第15編:04月23日号
第14編:04月16日号
番外編 :04月09日号
第13編:04月01日号
第12編:03月21日号
第11編:03月21日号
第10編:03月12日号
第09編:03月04日号
第08編:02月25日号
第07編:02月18日号
第06編:02月11日号
第05編:02月04日号
第04編:01月27日号
第03編:01月21日号
第02編:01月14日号
第01編:01月07日号

雪花の如く

第14編 高遠の桜

文聞亭笑一作

御館の乱は、景虎派の指導者である上杉景信、北条高広などが、次々と戦死して終焉を迎えました。景虎も、身内の北条氏政までもが越後から撤退してしまうのを見て、脱出すら諦め切腹して果てます。

第13号で触れた、景虎の忘れ形見の道満丸については、いくつかの説があります。

景勝によって殺されたというのが通説ですが、火坂雅志は生存説を取ります。

信州・飯山の豪族である市川新六郎が、憲正暗殺現場の混乱の中から、道満丸をひそかに脱出させ、信州・飯山に連れ帰り、市川伝七郎照虎として娘の婿にしたというものです。 武田勝頼の息子にしても、生き残って活躍する「神州天馬峡」という物語もありますから、事実はどうであったか分かりません。

31、景勝が、兼続をはじめとする腹心の若手たちを、他家に養子に入れるなどして、やや強引な手法で要職に就けたのは、それなりの理由がある。 景勝は、謙信時代の古い体制を一掃し、自らを中心とする新しい時代にあった、全く新しい体制を構築しようとした。組織の大改革である。

組織改革、なかなかに難しいことです。組織が大きくなればなるだけ、難しさは乗数倍で加わってきます。 組織構成員は全員が漏れなく、改革によって、自分がより存在感のある立場に立ちたい、あるいは、給料を増やしてもらいたいと熱望します。 既に、地位と権力を持つものは、それを維持し、さらに拡大しようとします。

下積みで苦労していたものや、疎外されていたものは、一躍、日の当たる立場に出るのを夢見ます。現状に満足している人でも、満足度を更に上げたいと願います。

が、改革には痛みを伴います。希望に沿う部分もあれば、現在の権益を失うこともあります。程度の差こそあれ、不満は残ります。この不満を、巧に扇動する者が現れれば、改革は頓挫しますし、時には、後戻りを始めます。 郵政民営化後の、与野党の迷走ぶりをみていれば、そのことが歴然としますね。

景勝の新体制は、兼続を家老に引き上げ、幼少の頃から従ってきた子飼いの若者たちを次々と抜擢しました。思い切った若返りで、謙信時代の序列を破壊し、景勝の指導力を高めた組閣です。これには、恩賞を期待して景勝に味方していた旧勢力が反発します。

新発田のように、信長と結んで公然と反旗を翻すものが出ますし、兼続の姿勢に批判を繰り返すものも出ます。兼続への批判の最たるものは「家柄が低い」ということでした。

家柄だけは、能力や実力ではいかんともしがたいことですから、反論できません。 戦国時代は、実力主義の時代といわれながらも、家柄とか、筋目とか、血の濃さとか… 色々な権威が生きていた時代でもあります。

そういった権威を徹底的に破壊したのが信長で、楽市楽座などは商工業の自由化です。

比叡山を焼き討ちし、本願寺門徒を虐殺したのも、宗教的権威の破壊です。人材の登用に関しては、家柄や筋目などは取るに足らないものと考え、だからこそ、光秀や秀吉が台頭できたのです。

信長の思想…現代人がタイムスリップして、現代の価値観を400年前に戻したようなものです。

天皇家の権威についても、ほとんど認めていませんでしたね。 安土城には天皇を遷都させる施設も用意してありました。自らは7階建ての天守閣に住み、天皇は平屋において見下ろす、というのが安土城の構図でした。

景勝と兼続が内部抗争を収め、必死で建て直しをしている頃、信長は安土城の天守閣から、天下布武を実現させるべく、日本どころか、海外にまで構想を広げていました。

なお、安土城の天守閣が、日本で始めての「天守閣」です。それ以前の城に、天守閣は存在しません。高い、物見やぐらがあっただけです。

32、兼続の心は乱れた。 お船は、夫の急死に衝撃を受けているのであろう。いかに乱世とはいえ、女の悲しみに土足で踏み込み、直江の名跡を奪うのは人としての道に外れている。婿入りできるだろうか。 冬の波でもかぶっさったような重苦しい気持ちが、兼続の胸に落ちてきた。

直江信綱が暗殺されます。暗殺というよりは事故死といったほうがよいかもしれません。 直江信綱は御館の乱で「関東への影響力」を獲得しようと策謀をしましたが、上野国を武田に譲ってしまいましたから、目的は果たせませんでした。しかし、中越地方のライバルであった上杉十郎などが没落してしまいましたから、小千谷縮などの繊維製品の権益は手に入れ、まずまずの目標達成でした。景勝派の重鎮として、存在感も増してきましたから、不満はありません。むしろ、重臣筆頭としてこれからだったのです。

一方で、恩賞にも、地位にもありつけなかった不満分子もたくさんいました。

揚北衆の新発田一族のように公然と反旗を翻すものもいれば、陰に回って悪口を言い合うものもいます。

そんな中に毛利何某という者がいて、「自分が評価されないのは、側近の山崎専柳斎の陰口が原因だ」と思い込み、山崎を暗殺しに乗り込んできます。たまたま同席していた、直江信綱も巻き添えにされてしまった、ということのようです。

兼続の身分の低さを補うために、景勝が取った打ち手は、兼続を直江家の養子にすることでした。夫を亡くしたばかりのお船に、兼続と結婚させるというのですから、当時の常識から言ってもかなり強引な組み合わせです。 それほどに…、景勝、兼続の改革が批判されていたということかもしれません。

33、<なんということだ> 砂山が崩れて波にさらわれるような武田軍の崩壊に、兼続は慄然(りつぜん)たる思いを抱いた。 これが、名将信玄の指揮の下、世に最強をうたわれた武田の武士たちなのか。あの 川中島で、上杉軍と5度にわたって死闘を演じた勇猛果敢な軍団なのであろうか。 (略) 早すぎる崩壊であった。織田軍の侵攻が始まってから、まだ僅かに一月あまり。 戦国最強をうたわれた武田軍団が、さしたる抵抗も見せずに消え去ってしまうとは― 過酷な乱世の現実が、兼続の胸に迫ってきた。 ―――諸行無常

謙信亡き後、家督争いで1年間も外に眼が向かなかった間に、世の中は大きく動いていました。信長軍の膨張は、留まるところを知りません。信長の急成長の原因は、足元の最大の難敵であった石山本願寺を追い詰め、追い出したことでしたね。

石山本願寺は、現在の大阪城のある丘陵地帯ですが、淀川と大和川の二つの大河に守られた地形と、当時は至る所に沼地が広がっていて、軍隊の移動が出来にくかったことです。

その地形を利用して、死ぬのを恐れない自爆テロ的なゲリラが出没するのですから、うかつには進めません。

中東の砂漠地帯に展開した、世界最強のアメリカ軍が、アラブのゲリラに悩まされて、制圧どころか、撤退さえ出来ないで悩んでいるのに似ています。一方は砂漠、一方は泥沼… 環境は違いますが、情況は同じです。

石山本願寺が、抵抗を諦めた原因は、結局のところ食糧不足でした。

信長が考案し、九鬼水軍が建造した大型鉄甲船が、毛利水軍を寄せ付けず、海上封鎖してしまったのが効きました。裏から支援していた堺の商人たちも、本願寺に見切りを付けて、武器弾薬の供給を停止してしまったのも大きいですね。堺が手を引いたのは、期待していた信玄、謙信の両雄が相次いでこの世を去ってしまったことによります。

謙信の死で、反信長同盟の包囲網は完全に破綻したのです。

本願寺を紀州に追い出して、信長は東に向かいます。家康に任せておいた武田との対決ですが、家康と互角だったところに、その倍以上の兵力をつぎ込みますから、武田内部が動揺してしまいました。木曾が裏切り、駿河の穴山が裏切り、最前線の防衛が崩れてしまっては、支えようがありません。雪崩現象です。

そんな中で、唯一抵抗したのが伊那・高遠にあった仁科信盛です。勝頼の弟ですが、僅か3千の兵で3万の織田軍に立ち向かいます。高遠城は急峻な山岳地帯にあって、攻めにくい城ですが、10倍の敵に攻められたら防ぎ様ありません。玉砕です。

高遠城の小彼岸桜は実に見事です。3千人の将兵の血の色を伝えて、信州の春を飾ります。

甲斐に逃げていった勝頼も天目山で滅びますが、このあたりも桃の花が山一面に咲くあたりです。甲信の春は、今も、赤い花が美しく野山を飾ります。

【NHK大河ドラマ「天地人」をより面白く見るために!】
時代に生きる人物・世相を現代にあわせて鋭く分析した時代小説、ここに登場。
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