雪花の如く
第44編 泥にまみれて
文聞亭笑一作
生きるということは、死ぬことよりも随分と辛いものです。
3万人を超す自殺者が、依然として高水準で続いていますが、世界中で60億人を超す人々が、必死で今日を生きています。障害を持つ人も、病気の人も、食うものがない人も、みんな、懸命に生きる努力をしています。
世の中は、カッコいいことだけではありませんよね。カッコよく見えることもありますが、みっともない事だってずいぶんとあります。良いことと、悪いことは、だいたい半分半分でやってきますが、記憶として残っていることは、良いことのほうが多いのです。
過去の記憶は、良いことばかり残っていますから、これからだって良いことのほうが多いと思うのがフツーの人で、「やれ温暖化で地球が破滅する」だの、「新型インフルエンザで人類が死に絶える」などと警告を発する人は、要らぬお節介焼きではないでしょうか。
そういうお節介に振り回されるのが情報化社会なら、そんな社会は早めに卒業して、次の時代に移りたいものです。
ノーテンキと笑われそうですが、心配ばかりして額に青筋を立てる人生よりも、楽天的に夢を抱いたほうが、健康的な生き方だと自画自賛しております。
ドラマ「天知人」もあとわずかになりました。このシリーズ「雪花の如く」も今回を入れて、後2回です。
120、正義は大事である。それは、ほかの何よりも重んじなければならない。
しかし、正義を振りかざすことで多くの血が流れ、世が再び乱れへ向かうのなら、時に人は、泥水も飲まねばならぬのではないか。
選挙公約・マニフェストを守ることは大事なことで、正義です。約束を守ることは人の道として当然で、重んじられ、守られなくてはいけません。ところが、やってみたら間違いだったと気がつくこともあって、間違いにもかかわらず、「約束だから」とこだわることは、良くないことです。
過ちて改めず、それを過ちと言う…三千年前の論語に言われている通りですが、未だに、そのことが分かっていない人が多くて、テレビの政治討論で、無駄な議論を繰り返しています。特に政権をとると…頑固になりますねぇ。
兼続と三成が目指した「通商国家・日本」は間違いではなく、彼らの正義でしたが、家康の目指す「鎖国・農本国家」の正義に負けてしまいました。約三百年後に、彼らの正義が明治政府によって実現されましたが、正義は、時とともに移り行くものなのです。
戦い続けると言うことは、戦争を続けることですから、人殺しを繰り返すことです。多くの血を流すということは、正義ではありません。
正義と言うものは実に複雑怪奇で、数学の公式や、物理の法則通りには解を得られませんね。それを無理矢理、正解を出そうとするのがジャーナリストと言う宗教集団で、彼らの正義に合わないものは徹底的に糾弾してきます。まぁ、為政者となれば、その追求は避けては通れないでしょうね。
小鳩の政権、カッコをつけすぎです。泥水もあえて飲まなくてはいけません。「間違いでしたから改めます」と、国民にお詫びをすればよいのです。
マニフェストを100%守らなくたって、ストライキは起きません。
121、「浪人どもを追放できないのであれば、秀頼どのご自信が大阪城を退去し、伊勢への国替えを承知されたし」
家康は、大阪方が到底飲めない条件を突きつけた。
無理難題と言っていい。講和の際の条件では、堀さえ埋めれば、浪人たちはお構いなし、秀頼自身にもなんら処分はないという取り決めになっていた。
それを、家康は前言をひるがえす形で公然と無視し、要求を変えた。
「汚い」と言えばそれまでですが、政治の世界は所詮汚いものです。これは、古今東西、変わりません。軍事力、経済力のあるものが、自分に都合の良いように「正義」を解釈し、思い通りに世の中を動かそうとします。
豊臣の、淀君・大野治長から見れば「到底飲めない条件」ですが、徳川政権を認めた兼続はじめ、多くの大名から見れば「当然」の要求です。この時点で、国民投票をやったら、徳川政権に票が集まったと思いますね。世の流れは方台寺の鐘銘の如く「国家安康」だったと思います。
「どっちでもいいからさぁ、戦争はやめようよ。落ち着いて仕事をさせてくれ、たのむよ」というのが民意ではなかったでしょうか。
この時点で「伊勢への転封」の提案が出ていますが、これは初めて目にしましたね。
ほかの歴史小説にはない話です。もし、豊臣秀頼がこの条件を飲んだとしたら、家康はどうするつもりだったのでしょうか。「言ってみただけ」とかわすには具体的に過ぎます。
当時、伊勢には藤堂高虎がいて、井伊直正と並ぶ、徳川軍の先鋒部隊の根拠地のはずです。
家康は京都朝廷を、一種の仮想敵国と考えていましたから近江と伊勢には腹心の二人を配していたのです。
そう考えると、「伊勢への退去」は国替えではなく、「藤堂家お預け」。
つまり、体のよい引退勧告か、反乱処分だったかもしれません。
大坂方はカンカンになって、堀の修復などを始めますが、壊すことは簡単でも、作るには時間が必要です。間に合うはずがありません。
いったん解雇した浪人たちも、再募集に応じてまた集まってきます。こうなれば「豊臣が先に仕掛けた」「幕府への反乱だ」という正義の旗を振りかざして、家康が再度出動します。
政治的駆け引きでは、まさに大人と子供ですね。振り返って、現代日本の外交…、中国や北朝鮮の手玉に取られているようで心配です。
マニフェストなどにこだわらず、大人の外交を心掛けてほしいものです。
122、歳月が流れても、人はこうして逞しく生きていくのだろう。天下、天下と騒いでも、所詮は一瞬の夢。田畑を耕し、魚をとり、子を産み育てる営みに比べれば、わしのやってきたことなど、水泡一つの値打ちさえないかも知れぬ。
冬の陣の後も、兼続は「必ず次もある」と読んで、伏見屋敷に滞在していました。
それだけではなく、息子の体の調子がおもわしくなく、米沢までの長旅に耐えられそうになかったのです。兼続、お船の子供3人は、なぜか皆…虚弱体質でしたね。
戦争をするのでもなく、政治をするのでもなく、兼続には珍しい空白の時間です。街を歩き、野を歩き、庶民の生活に触れるたびに平和のありがたさを実感します。暇になると、襲ってくるのは虚無感ですね。兼続も例外ではありません。
一方で騒乱の中心近くにいますから、大坂方の動きは手に取るように分かります。
幸村はどうしているだろうか…、大阪に入城しているかつての同志たちの思いに、心を飛ばします。もしかすると、自分もそのうちの一人だったかもしれないのです。
裸になった大阪城を目の前にすれば、反徳川の気持ちがあった外様大名たちも、反抗する気は全くなくなりました。
多少、抵抗的な態度をとったものは福島正則と伊達政宗だけです。
福島正則は、家老の福島左衛門太夫が浪人して大阪に入るのを黙認しています。黙認というよりは…「名代として忠義を尽くして来い」と送り込んだのかもしれません。
そのあたりは、伊賀忍者の諜報網で徳川方に筒抜けでした。ですから、福島正則は大坂の陣には出動を禁止され、江戸留守居役に回されています。
もう一方の伊達政宗は、兵力の消耗を嫌い、かつ、大坂方の温存を狙ってサボタージュをしました。海の向こうからイスパニアの艦隊が到着するのを心待ちしていたのです。
この行動に娘婿の松平忠輝を巻き込んだのが大失敗で、戦後に松平忠輝は「職務怠慢」と改易されてしまいます。松平忠輝を傀儡にした徳川幕府乗っ取りを画策していた伊達政宗には、痛恨の失策でした。
一方、大坂方に参陣した浪人組の指揮官たちも、改めて籠城などできないことを思い知らされます。冬の陣では難攻不落の要塞でしたが、堀がなくなってしまえば守ることはできません。残る戦略、戦術は捨て身の玉砕攻撃だけです。
ただ、大野兄弟と秀頼親衛隊にはそれすら分からなかったようですね。堀をちょっと掘り返しただけで要塞だと思っていたようですから、戦争ごっこです。
真田、後藤などは「華々しく死ぬ」ことしか頭にありませんでした。狙うは「家康の首一つ」。そのほかは眼中にありません。
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