雪花の如く 第34編 佐和山の密約
文聞亭笑一氏作”雪花の如く”を連載します。NHK大河ドラマ「天地人」をより面白くみるために是非ご愛読下さい。
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雪花の如く

第34編 佐和山の密約

文聞亭笑一作

風雲急を告げてきました。

三成の佐和山への退去は、中央政権における家康の地位を大きく押し上げていきます。 家康が大阪城に入ったことで、それまで三成の使い走りをしていた増田、長束などの官僚たちが、こぞって家康に尻尾を振り出します。

サラリーマンの辛いところですねぇ。権力者には靡かざるを得ません。三成の同志だったはずですが、生き残りのためには豹変します。こういう人情の機微を知らなかったことが三成の失敗なのですが、エリート街道をひた走ってくると、人情には疎く(うとく)なります。

景勝をはじめとする五大老たちも、政権運営の実務には参画させてもらえず、ほとんどの実務は家康が取り仕切るようになってしまいました。官僚たちからの相談も、情報もないのですから自然の流れです。

業を煮やして、先ず、上杉が動きます。 家康との対決を決意して、帰国願いを家康に突きつけます。

86、有力大名を国許へ帰すということは、虎を野に放つようなものである。
現に、上杉家は景勝の会津帰国を機に120万石の領地を固め、徳川に対抗する力を蓄えんとしている。 しかし、半面、上方からうるさい大老が姿を消すことで、家康の独裁色が強まることも確かであった。

形の上では帰国願いですが、帰国宣言のようなものです。景勝は例によって「帰国させていただく」としか言いません。

その理由を理路整然と説明するのが兼続です。移封後日が浅く、民政の手当ができていない、国許を安定させるのだと一方的に伝達します。

あらぬ噂を口にして、ちょっかいを掛ける本多正信を景勝が一喝して沈黙させます。 このあたりのコンビネーションが、実にさわやかで、家康も「否や」はいえません。

むしろ、家康はこの機会に大阪城の官僚を取り込もうと画策します。

上杉だけでなく、前田、毛利、宇喜多も帰国させて、中央の独裁体制を固めようと画策します。一種の政治的賭けですね。国会解散のようなものです。兼続、三成が作った五大老五奉行の合議制を有名無実にして、家康独裁を固めようとしました。

この辺が…タヌキと言われる所以です。敵方の動きを利用して、自己勢力の拡大と、敵陣営の弱体化を画策します。

前田利長による家康暗殺未遂事件で前田を失脚させ、宇喜多家の内部に御家騒動を起こさせて、その仲裁を買って出るなどは、まさにマッチポンプ、本多正信や、服部半蔵以下の忍者部隊が暗躍します。

会津へ帰国するということは、景勝は愛妻・菊と離れることになります。 兼続もお船と別れての単身赴任になります。別れを惜しんで、兼続がお船に書き残した詩が残っていますが…歯の浮くような、演歌のような、名調子ですねぇ。

二星何ぞ恨まん隔年に会うを

牽牛と織女は年に一度の出会いだが、それを恨みはしない

今夜床を連ねて鬱胸を散ず

今夜だけはこうして一緒に寝て、胸の憂さを晴らしている

私語未だ終わらずして先ず涙を洒ぐ

互いの目から涙が溢れ、言葉が尽きることもない

合歓枕下五更の鐘

抱き合って時を重ねるうちに五更の鐘(AM4:00)が鳴る、別れのときだ

現代の単身赴任では、週に一度、月に一度は帰宅してきますが、この時代の会津と大阪の距離は日本からブラジルあたりに行く時間距離感覚だったと思います。しかも、今度の帰国は家康との武力対決の可能性を秘めています。

兼続は戦場に散るかもしれません。お船は人質として家康に拘束されるかもしれません。

永の別れ…そんな思いすらしたでしょう。一概にキザ、女々しいなどとは言えませんね。

87、「わしが人望に欠けることは、先ごろの一件でよく分かった。それゆえ、わし自身は一歩身を引き、皆が納得する人物を大将に立てる」
「誰だ」
「毛利殿ではどうだ」

上杉一行は大阪から伏見、京都を経由して会津へ向かいます。 今度帰る時があれば、家康の首と胴体が離れているときです。そうでなければ、二度と帰ることのない道です。京大阪の情報を間断なく会津に伝えるための工作をしつつ、ゆったりと歩を進めます。家康が自慢する伊賀、甲賀の忍者軍が蚊か蠅のように付きまといますが、一切気にしません。家康が引退でもしない限り、「席を同じうせず」と心を決めていますから、情報漏れなどはどうでもよいのです。むしろ、余計な詮索をさせて、下らぬ噂を捏造される方が迷惑なのです。

草津で、東海道を進む景勝一行と別れて、兼続は一人、佐和山に向かいます。

名目上は別れの挨拶ですが、誰が見ても家康との決戦の最終打ち合わせですよね。

いつ、どこで、誰が、どのように…今でいう5W+1H家康の動きに対する対応策です。

頭の良い二人の打ち合わせですから、作戦的に全く漏れはありません。 この二人に、実戦経験豊かな石田の家老・島左近が加わります。完璧な作戦です。

ただ、ここで、兼続は重大な確認を漏らしてしまいます。これが、結局は関が原の敗因につながりますから、後に、兼続の大きな悔やみになります。

その確認漏れとは?  「いつ」という三成決起のタイミングでした。

兼続は、当然のこととして「白河の関での戦闘開始」を「いつ?」として確認したつもりでしたが、三成は「家康が江戸城から上杉征伐に向かった時」と勘違いしていました。

実戦経験のあるものなら、戦闘に入る前の軍人の心理と、戦闘が始まってからの心理の違いを常識として理解しているのですが、三成にはこの常識が欠けていました。戦闘とは軍が動いた時…と思っていたのです。

戦闘に入る前の兵士は、計算と理屈と意気込みで物事を判断します。

戦闘中は、身の安全と目の前の敵との力関係だけを判断します。理屈も計算もありません。

この違いが…小山会議で家康連合軍の結束を生んでしまったのです。福島正則、山内一豊、池田輝政、堀尾、生駒などという秀吉子飼いの面々を家康方につけてしまったのです。

上杉軍が徳川軍に先制パンチを与えた後なら、小山会議の結束などありえません。真田親子の離反を皮切りに、豊臣恩顧の大名が次々と連合軍から離脱したでしょう。

たった一つの確認漏れ、これが天下を分けました。

88、家康は大阪城西の丸に五層の天守閣を築き、天下に睨みを利かせだしている。
政権運営に自信を持ち出したのか、家康は五大老の一人前田利長に脅しをかけた。

城の西の丸とは、その城のNo2の住居地です。普通は側室がこちらに住みます。

ところが、淀君が秀頼を抱えて主人の城・本丸に入ってしまったため、北の政所・寧々が西の丸に追い出されてしまいました。

寧々にとっては「ケタクソ悪い」ですよね。妾に母屋を乗っ取られてしまったのです。

しかも、秀頼が秀吉の子でないことを確信しています。口には出しませんが、豊臣家は終わったと、既に諦めていたと思います。「信長から譲られた政権を、織田の血筋に返す」 これが、秀吉・寧々夫婦の暗黙の了承ではなかったかと思います。

寧々は、妾に乗っ取られた大阪城などに住む気はありません。さっさと西の丸を退去して、秀吉の遺体が眠る京都・東山の麓の高大寺に移り住みます。

秀吉の辞世の句「浪花のことは 夢のまた夢」は寧々にとっても同じ心境だったでしょう。

織田家に返上した政権を、家康が奪おうが、三成が私しようが、どうでもよいのです。

ただ、妹婿の浅野長政、甥の木下家定、小早川秀昭、遠縁の加藤清正や福島正則、それに信長の命令に逆らって守った黒田長政などが可愛くて仕方ありません。わが子同然なのです。彼らが家康を支持するのなら…当然、寧々も家康を支援します。寧々の身内や子飼いは、全員一致で反・三成派なのです。

ここにも、兼続の誤算がありました。寧々が、豊臣家を捨てていたことを知らなかったのです。秀頼を豊臣後継者と思っていないという、女心の機微を、忘れていたのです。

【NHK大河ドラマ「天地人」をより面白く見るために!】
時代に生きる人物・世相を現代にあわせて鋭く分析した時代小説、ここに登場。
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