雪花の如く
第36編 天下分け目
文聞亭笑一作
佐和山城にあった三成が、城下を通り過ぎていく西国大名の中に、大谷義継の旗を見つけます。「義継ぐお前もか!」居ても立っても居られません。大谷義継は、石田三成にとって親友の中でも親友です。兼続との関係以上に親密な仲で、秀吉の小姓時代から竹馬の友として一緒にやってきた仲です。彼が、家康の旗の下に去ってしまっては、自分の存在価値がなくなってしまうような焦燥感に駆られました。
大谷義継は三成以上とも言われた秀才ですが、ハンセン氏病で顔が崩れてしまい、秀吉政権からは引退していました。真田幸村の義父でもあります。
決起を諌める大谷義継を説得して、その勢いで西軍の旗揚げをしました。
大阪城に乗り込んで家康弾劾の檄を全国に飛ばしたのです。佐和山、草津などに柵を設け、東に向かう西国の大名たちを大阪へと追い返します。
いよいよ、対決の構図がはっきりと見えてきました。
95、「上方の石田殿には、我らが皮籠原の緒戦で勝利した後、挙兵するように、密使をもって連絡してございます。出鼻をくじかれた上に、西国で反徳川の火の手が燃え広がれば、もともと寄せ集め部隊の会津遠征軍は内部崩壊を起こしましょう」
「とにかく緒戦で勝つことだな」
神指原の新城は出来上がっていませんが、予定戦場を白河口の皮籠原に設定して、上杉軍は準備万端整えて待ち受けます。友軍の佐竹との連携も万全です。佐竹は、東軍の振りをして家康に従っていますが、実は西軍でした。
兼続の戦略プランでは皮籠原で上杉と徳川が決戦をする上杉が家康軍を、戦場に釘付けにするか、一反宇都宮に退却させる
そこへ大阪で石田三成が挙兵した知らせが入る大阪へと転進する家康を追って、上杉が追撃し、その退却軍を佐竹が横から崩す
というものでした。
が、三成の挙兵が早すぎました。家康が江戸を発って、小山に着陣したときに、すでに伏見城炎上の知らせが入っていたのです。西では戦争が始まっていました。
西軍としては大誤算です。東軍は、まだ、上杉と一戦も交えていませんから無傷です。
96、東軍に加わった諸将は豊臣、徳川の決戦となったとき、どちらに付くか、態度を決めかねているものが多かった。彼らは上杉討伐に参加しているが、ほかの目的のために戦うほどの義理はない。
しかし、家康か、三成か、いずれかを選択しなければ許されない状況が、今、諸将の前に突きつけられていた。
会津遠征軍は、先ず、榊原康正の先鋒部隊が宇都宮に陣取っています。那須高原をはさんで上杉景勝と向かい合います。予定戦場の皮籠原は両者の中間点に位置します。
家康の本隊は小山までやってきました。江戸と宇都宮の中間地点、関東平野のど真ん中です。ここで、三成挙兵、伏見落城のニュースが飛び込んできます。
「待ってました」
家康はほくそ笑んだと思います。上杉と戦う前に、石田三成が動いてくれるのを待ちかねていたのです。実は、家康が江戸城に居る間に動いてくれないものかと期待していたのですが、三成は兵を集めるだけで、攻撃を仕掛けてくれなかったのです。
ところが、無理矢理、西軍にさせられてしまった島津や小早川が我慢しきれず、三成が彼らを抑えきれず、暴発してしまったのが伏見城攻撃です。
会津遠征軍はこの小山で緊急会議を開きます。
会議と言うよりは、家康の参謀・本多正信の演出した芝居です。
西軍の大将は毛利輝元でしたが、これを無視して、ことさらに「石田三成反乱」と伝えます。「秀頼様を欺き」「太閤殿下の建てた伏見城を焼き…」などと、敵を三成一人に絞り込みます。
豊臣親衛隊の福島正則などには、「三成憎し」の感情を燃え立たせるべく、周到な根回しをします。その上で「どちらに付くかは皆さんのご自由に」と投げかけています。
会議は福島正則の冒頭発言で一気に団結が高まりました。更に、黒田、細川などの家康派の大名が発言して結束を固めます。そこへ、山内一豊が「家康のために掛川の城を明け渡す」と爆弾発言をします。この発言につられて、駿府、浜松、豊橋など、東海道の諸城がすべて家康に靡きます。これは、筋書きには全くなかった発言でしたね。家康にとっては涙が出るほどに嬉しかったらしく、関が原のあと、山内一豊には土佐一国を与えています。
この会議で「それなら我らは西軍に」と引き上げたのは、上田の真田親子と、美濃岩村の田丸直昌だけでした。ムードが盛り上がる中で、反対意見を言うのは勇気の要ることです。
ともかく、会津遠征軍は結城秀康を大将とする3万の軍勢を残して、西部戦線へと転進していきます。
97、このように能弁で、自らの意思をはっきり口にする景勝を、兼続はこれまでに見たことがない。
「どうしても出陣するなら、このわしを斬り捨てていけ」
上杉にとって千載一遇の追撃のチャンスです。5万の兵力と佐竹1万の援軍があれば、家康の首をとるのも夢ではありません。出撃の采配を振ろうとする兼続に、景勝が断固として反対します。「追撃は義にあらず」というのです。
いよいよ関が原ですねぇ。
家康軍は粛々と東海道を西に向かいます。
一方の石田三成も予定戦場の濃尾平野に向かって進軍し、大垣城に進みます。木曽川をはさんでの大会戦と言うのが、石田三成の構想でした。家康の想定も、大方そんなところではなかったでしょうか。
関が原でぶつかったのは両軍の主力10万人隊10万人ですが、全国規模での戦いでもありました。徳川が去った後の東部戦線では、上杉を中心にした奥州戦争が勃発しています。
西に目を転じると、火事場泥棒よろしく黒田官兵衛が九州で暴れまわっています。
東西両軍、色々な思惑を秘めて、戦います。
それぞれの大名の立場を整理してみましょう。
先ず、国家体制のイメージが異なります。
秀吉方商業主義経済と家康農本主義の幕藩体制に分かれます。
更に、三成形官僚主体の中央集権と、地方分権さらには自己保身のための日和見が加わります。
■秀吉経済で官僚主導の中央集権・・・体制維持派(西軍)
石田三成、上杉景勝(兼続)、大谷義継、宇喜多秀家、立花宗茂、小西行長、
■秀吉経済で地方分権・・・戦国願望(東軍)
黒田官兵衛、加藤清正、伊達政宗、
■家康経済で中央集権・・・幕藩体制(東軍)
徳川家康、藤堂高虎、吉川元治
■家康経済で地方分権・・・独立王国派(西軍)
佐竹義宣、島津、長宗我部、毛利輝元
■日和見で西軍
真田昌幸、織田三法師、小早川秀秋、その他大勢
■日和見で東軍
福島正則、山内一豊、前田利長、最上義光、その他大勢
赤…関が原参加組 青…東部戦線 緑…九州戦線
整理していて訳がわからなくなりました(笑)
ともかく感情や思惑、偶然の出会いがしらまでが入り乱れて、正確な分類は不能です。
兼続が戦った相手、最上義光などは、複雑怪奇です。ある意味で真田昌幸と同類でしょうか。「生き残り」に全力を傾けていたのでしょう。
ともかく、日本中が真っ二つに分かれてのバトルです。戦争参加者は約35万人。
天下分け目の関が原でした。
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