雪花の如く
第45編(最終回) 柴火煙中焼芋香
文聞亭笑一作
長い物語も今回で終わりです。長らくのお付き合いをありがとうございました。
読者の一人、柳原さんのご厚意で、「けいはんな」のHPに連載をいただき、バックナンバを管理していただき、閲覧をやりやすくしていただきました。メール配布メンバ以外の、読者の目にも触れたようです。
また、アシスト社の根井部長のご厚意で同社の季刊誌に2回シリーズで「天地人・戦国経営」という小文を掲載できました。
そのほか、写真や取材などで協力いただいた多くの方々に紙面を借りて御礼申し上げます。
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戦国最後の戦争が始まる前、嵐の前の静けさを楽しむように、伏見で、巨椋池を眺めながら、直江兼続と真田幸村の師弟が邂逅します。
敵になったり、味方になったり、目まぐるしく変転する戦国に世を、力いっぱい生きてきた二人です。
123、兼続と幸村は、それきり何も言わず、ただ静かに杯を重ね続けた。
言葉にはしなくても、酒を飲んでいるだけで、万言を尽くす以上に心が通い合った。
一人は、愛という思想のために、あえて泥をかぶり、厳しい「生」の道を民とともに歩むことを選んだ男。
もうひとりは、自ら信じる義を貫き、清冽で、華やかな「死」の道へ突き進もうとしている男。
兼続の教えを受けた幸村の義は、単に豊臣家に忠義を尽くすと言うことではない。徳川幕府・・・すなわち天下の覇権を握った巨大な権威に対し、
「力がすべてか」
と、自らの命をかけた行動をもって、挑戦状を叩きつけることであった。
兼続と三成は「国家構想」を共有する盟友でした。
兼続と景勝は「上杉会社の命運」を共有する盟友でした。
兼続とお船…これも、夫婦というよりは、「上杉魂」を共有する盟友だったと思います。
それにもう一人、兼続と幸村は「義の思想・哲学」を共有する盟友でした。
戦国最後の戦争が避けられない状況になって、大阪城を抜け出してきた真田幸村と、その幸村を攻める立場になった直江兼続が久しぶりに邂逅します。場所は伏見の郊外、京の南に広がる巨椋池のほとりの民家です。
政治も戦いもありません。政治は徳川幕府体制が盤石の重みを持って、全国制覇を完成しつつあります。残るは大阪城の豊臣秀頼と、関ヶ原の残党たちだけですから、これを成敗してしまえば、表だって逆らう勢力は壊滅します。家康の最後の総仕上げです。
戦争のほうも、戦う前から勝負はわかっています。豊臣方には、万に一つも勝ち目はありません。「華々しく最後を飾ること」だけが目的の戦いなのです。
ですから、兼続と幸村の邂逅に言葉は要りません。互いの目を見つめあえば、心に通い合うものは、互いの「義」の生き様だけです。
後世、悲劇の英雄として長く名前が残ったのは、滅びの道を選んだ真田幸村でした。
池波正太郎の真田太平記を始め、真田十勇士の物語として、昭和に至るまで少年たちのあこがれの的でした。
一方、生きる道を選んだ直江兼続は、家康の専横を糾弾した「直江状」だけが細々と生き残っただけです。歴史とはそういうもので、偉大なる成功者か、悲劇の英雄だけが碑文に刻まれます。豊臣秀頼、最後の最後まで戦場に立つこともなく、大阪城の藻屑と消えた温室育ちのボンボン男でも、歴史上には一方の大将として残ります。
おかしなものですが、歴史とは…そういうものです。
124、「わしは長い戦いの果て、塵埃の中に己の義を見つけた。わが名は、後世に残らずとも良い。これよりは、民への愛にこの身をささげよう」
「愛とは強き言葉でございますな」
「そうあるべきものと、信じている」
兼続は晴れ晴れとした表情で言うと、再び酒を飲み干した。
冬の陣で兼続の掲げた「愛の旗」は大坂方に鮮烈に焼きつきました。北部戦線・鴫野砦の戦いで、窮地に陥った佐竹勢を救援に向かった時の、上杉の働きぶりは勇猛果敢でした。
その戦いぶりを、大阪勢の後藤又兵衛が見ていて幸村に伝えたのです。己を知る勇将は、敵の勇将の動きも良く見えます。
民への愛…大阪陣の終了後は兼続の生きる目標はこの一点に絞り込まれます。殖産振興、経済政策と領民教育に集中します。「人こそわが上杉の宝」と思い定め、あらゆる階層の人材を育てます。特に百姓衆を育てるべく、彼の後半生は農業指導書の執筆に費やされています。農作業の指導書の中に、論語ほかの生き方の基本などがちりばめられていて、実務的な教科書です。
江戸文化が、学術的、形至上的、形骸化に向かうのに反して、実務に重点を置いた庶民の生き方を説いています。
民にささげた兼続の愛は、米沢上杉藩を越境することはありませんでした。越境すれば…30万石の建前で、実質五十万石近い収入があることがばれてしまいますからね。
そうなれば、世間並の重税を課さねばならなくなり、「愛民」に反してしまいます。
兼続の、この事業に多くの百姓、町人たちが協力しています。アイデイアの提供、試験結果の報告、他藩の成功事例、昔からの言い伝えなど、皆が自発的に提供しています。
この当時の米沢においては、士農工商の身分制度は実質的に消えていました。
125、徳川勢の後詰めとして岩清水八幡宮にあった兼続は、夜もすがら燃え盛る大阪城の炎を、遠く、瞬きもせずに見つめ続けた。
それは、一つの時代の終わりを告げる炎であった。
大阪城が燃える火は、戦国という一つの時代の終わりを告げる送り火です。
実力主義の、自由経済の終わりです。ここから封建制、統制経済の幕が開きます。
秀頼、淀君という豊臣一族と、その郎党たちを荼毘に付す炎でもあります。
真田幸村、後藤又兵衛という悲劇の英雄をあの世に送る、葬送の火でもあります。
兼続は、その一つ一つを胸の中で繰り返していたのでしょう。もしかすると、この戦陣のために無理をして、死んだ息子の弔いもしていたかもしれません。
すべての過去が焼き尽くされた後には、現在と未来しか残りません。幸村と誓った「民への愛」を、大阪城の火に誓ったのかもしれません。
126 晩年、兼続はこんな詩を残している
雪夜炉を囲んで情さらに長し
雪の降りしきる寒い夜、友と酒を酌み交わしていると思いが深まっていく
吟遊相会して古今を忘る
二人で詩を吟じあえば、古今の悔やみごとが胸から消えうせていく
江南の良策求むる所無くんば
あの時、自分の提案した策(関が原前夜の徳川追撃策)が通らなかったのだから
柴火煙中芋を焼くの香り
今はさらりと忘れて、芋の焼けるかぐわしい香りを楽しもう
山茶花、サザンカ咲いた道 焚き火だ・焚き火だ落ち葉焚き …
懐かしい童謡ですが、山茶花の花が咲き、落ち葉が舞い散る季節になりました。
落ち葉を掃き集めて、落ち葉焚きの季節でしたね。・・・敢えて過去形で書きます。
落ち葉の焼ける中には、当然のように薩摩芋が入っています。熱さに耐えながら、真っ黒に焦げた皮をめくって…出てくる真っ黄色のイモと、その香り…
思い出しただけで涎が出てきます。われわれ世代には、最高のおやつでした。
親から言われなくたって、道路や庭の掃き掃除をしましたねぇ。
焚き火が禁じられ、もし、やったものなら消防車が駆け付けて、こってり油をしぼられるのが、都会の子供です。楽しみを奪われ、自然を奪われています。自己本位のクレーマが、世の中を暗く、住みにくくしていますが、それに便乗して禁止、禁止の連発ばかりする為政者も、マスコミも問題ですね。今度はタバコの増税だとか・・・
民を愛する…という命題は実に重く複雑ですが、兼続の気持を味わいつつ、焼芋売りが通りかかるのを期待しながら、筆を置きます。
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