八重の桜 33 文明開化

文聞亭笑一

今回のドラマは、放送当初の視聴率が低かったようですね。その原因の一つは視点の違いからくる違和感でした。いわゆる薩長史観で記憶していた歴史が、会津視点での物語に抵抗を覚えたことです。「歴史認識」などと隣国は、この視点の差を政治問題化しようとしますが、自国の主張、認識を他人に押し付ける態度は子供じみた我が侭です。人それぞれ、立っている場所が違いますから、お互いにそれを認め合うところから相互理解が生まれます。歴史認識を政治問題にするのは、しょせん無理な話なのです。

低視聴率のもう一つの原因は会津の方言だったと思います。今回のドラマは徹底して会津弁で押し通していますが、「聞き取れぬ」「何を話しているのかわからぬ」という苦情が多かったようですね。そう、会津弁が耳に慣れにくかったのです。「おしん」の時もそうでしたが、回を追うごとに耳になじんできます。苦情を言っていた人も徐々に慣れて、聞き取れるようになると、それがまた「らしさ」となって心地よくなってきます。

方言と一口に言いますが、全国通津浦々にさまざまな言葉があります。しかも、薩摩藩のように公儀の隠密を発見し、捕らえるために強制的に発音を変えさせたような例もあります。その一例が「か」の発音で、薩摩藩内では「くゎ」と発音させていました。「やかん」ではなく「やくゎん」と言わなかったら、よそ者として逮捕されてしまいました。

明治新政府が、最初に困ってしまったのが、この言葉の統一です。共通語、公用語、いわゆる標準語を作らないと、「話にならない」のです。そこで、江戸の言葉を中心に標準語作りに取り掛かりましたが、最後まで揉めたのが接尾詞でした。薩摩の「ごわす」京の「どす」瀬戸内の「じゃけん」関東の「だっぺ」など、千差万別です。そこで、内務、教育などを握っていた長州が「です」「ます」という長州弁を「公用語である。標準語とする」と決めました。どちらかといえばマイナーだった言葉を採用したのです。これはある意味で正解でした。当時の主流だった関西弁や、江戸弁を採用していたら、日本語が分裂していたかもしれませんね。標準語の制定というのは、維新の中でも文化革命に属しますね。

書き言葉は、教育の浸透とともに標準語に統一されていきましたが、話し言葉はそうはいきません。維新から100年以上経過した現代でも、方言はしっかり生き残っています。それどころか、お笑い芸人の活躍で、関西弁の勢いが強まってきていますしね(笑)

抑揚(イントネーション)まで含めたら、何十通りもの日本語が飛び交っています。

故郷の 香り懐かし停車場の 人混みの中にそを聞きに行く(石川啄木)

啄木は故郷が恋しくなると上野駅に出かけ、「そ…それ、つまり東北弁」を聞いて、故郷を懐かしく思い出していたようです。啄木の故郷も朝敵の盛岡藩でした。

124、明治6年(1873)政府はこの年の初め太陽暦を導入。千年の古都・京都にも文明開化の波が押し寄せていた。八重は、女紅場と呼ばれる官立の女学校で住み込みの舎監として働き、また学生として学びながら、一年が過ぎていた。

明治新政府という政体は、いわゆる『寄せ集め集団』でした。薩長と京都の公家が中心ではありますが、土佐、佐賀、越前など維新に協力した藩の面々が顔をそろえています。

今でいうところの総理は三条実美、官房長官は岩倉具視で公家出身ですが、実務を取り仕切っていたのは薩摩の大久保利通でした。『明治新政府は海図なき航海』と言われる通り試行錯誤の繰り返しです。そこで、明治4年の暮、海図を手に入れようと岩倉使節団が欧米に向けて出発します。岩倉、大久保、木戸と言った面々が参加します。それまでの政府で中心的な役割を担っていた面々が、2年間ごっそりと居なくなります。この視察団の、米国滞在中の通訳を担当したのが新島七五三太・襄でした。

首脳がごっそりいなくなった後を託されたのは西郷隆盛でした。

西郷は「国を作るのは人材である」との信念に従い、旧幕臣や賊軍と言われた人たちを恩赦、特赦を乱発して新政府に登用します。勝海舟や山岡鉄舟、五稜郭の榎本武揚などが続々と復帰してきます。西軍政府からオールジャパンに変えていこうという方向ですね。

余談ですが、太陽暦を導入したのは旧暦12月の初めでした。明治5年は12月がありません。それに、この年に小学校、中学校の学制が公布されています。新橋・横浜間に鉄道が敷かれたのもこの年です。

125、「辛気臭い顔すんな。金はわしが何とかする。何度言わすんや」
槇村はドンと胸を叩き、豪快に笑った。京都の近代化は覚馬の発案を槇村が決裁。
化学者の明石が実行。この三人を中心に進んでいた。

文明開化の流れは、待ったなしで全国に広がっていきます。京都は、寺社、家元などの保守勢力が強い所ですから、文明開化への抵抗が出ますね。引用した文章のとおり、八重はその推進者の妹ですから、率先垂範することになります。洋装で外を歩き始めたのがいつからか? 資料はありませんが、京都で初めて洋装を纏って町を歩いた日本人は八重が最初だと思います。当然白い目で見られますねぇ。我々の時代でいえば、ミニスカートが世の中に現れた時のようなもので、当時高校生だった私などは目が眩んで、点になってしまうほど驚きました。

しかも、その洋装の麗人が聞き取りにくい会津弁を話します。将に…外人ですねぇ(笑)

八重と、覚馬の後妻・時枝とは何かにつけてしっくりいきませんが、その最大の要因は言葉の壁だったでしょうね。京言葉と会津弁…水と油ほど違います。

幕末の京都で長州は好かれ、会津が嫌われたのも、この言葉の壁だったように思います。

126、その頃、東京の新政府内では、朝鮮政策を巡って激しい対立が起きていた。日本との国交樹立を拒む朝鮮に対し、土佐の板垣退助、佐賀の江藤新平らは出兵覚悟で圧力をかけるべきと主張。しかし、岩倉使節団として二年ぶりに帰国した岩倉・大久保らは、今は国内政治を優先すべきと、これに反対していた。

朝鮮政策、征韓論と言われてもピンとこないと思います。明治新政府は、新政府樹立直後に諸外国に向けて天皇の名で国書を出します。「新しい政権ができて、これが日本を代表するのでよろしく」という内容で、国際法に則ったものです。

が、この国書を拒否する国が一つだけありました。朝鮮王朝です。当時の朝鮮王朝は鎖国主義を国是にしていましたが、幕府とは朝鮮通信使という形での国交がありました。新政府としては、当然その延長で幕府の代わりが新政府と申し入れたのですが、朝鮮王朝はこれを拒否します。「新政府を日本の代表と認めない」という態度を取ります。

これは、朝鮮王朝の外交上の失政で、長い鎖国の間に国際感覚がマヒしていましたね。国書の受け取り拒否は国際紛争の火種になります。しかも、いうに事欠いたのか『「皇」という字を使えるのは中国皇帝だけである』などと屁理屈を持ち出し、「日本は朝鮮の属国であった」などと千年以上も古い歴史問題(?)を持ち出します。

この対応に、居残り組の政府首脳(西郷、板垣、江藤)は烈火のごとく怒ります。西郷が持ち出した案は「おいどんが『うん』と言わせるまで直談判してくる。もし、殺されれば、そん時は征伐じゃ」というものでした。

この問題もあり、木戸や大久保は予定より早く帰国します。西郷を抑え、外交で決着しようという路線です。政府内は二派に分かれました。

軍事圧力派…三条、西郷、板垣、江藤、後藤、副島、桐野、篠原

外交努力派…岩倉、木戸、大久保、大隈、伊藤、井上、陸奥

さらには中立派の勝、山県、西郷従道なども絡んで大混乱です。この間までの民主党政権のようなものでしょうか。寄せ集め集団の悲しさです。

127、西郷は顎を引き、大久保を見つめた。西郷の体から場を圧するような気迫が発せられる。二人で合意したのは何だったのか。ともに新しい国家の成立のために進んできた日々に、大久保は自ら終止符を打ったのか。(略)
西郷は参議を辞職。板垣、江藤もこれに続き、新政府はついに大分裂した。

西郷隆盛が朝鮮に直談判に行く…という案は、岩倉、大久保の頑強な抵抗にあって、ついに実現しませんでした。征韓論を唱えていた面々は、軒並み政府を離れます。いずれも国許に引き上げてしまいます。これに、武士という職を取り上げられた失業武士団が絡んで、萩の乱、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、西南戦争へと内乱が続いていきます。

官軍から明治新政府を作ってきた諸藩が、揃って内乱を起してしまいます。勝てば官軍ではありますが、勝ってもその中で権力闘争が起きます。人間の社会は難しいですねぇ。

ただ、土佐だけは戦争という道を取らず、自由民権運動に突き進みました。

一方、司法省に逮捕、拘留されていた京都府知事の槇村は、司法長官の江藤が辞めたことで放免になります。槇村の逮捕で滞っていた京都府政は、また息を吹き返し、文明開化へと再スタートを切ります。