水の如く 34 すきま風

文聞亭笑一

秀吉と官兵衛の間にすきま風が吹き始めたのはいつごろからでしょうか。中国大返しから山崎の合戦、その後の清州会議、賤ヶ岳の合戦までは政略に戦争にと二人三脚で次々と政敵を屠(ほふ)ってきました。この間は隙間風の入り込む余地はありません。

このあとの小牧・長久手で家康と対峙する辺りからでしょうか。秀吉は美濃、尾張へと遠征に出かけ、官兵衛は大阪築城と毛利との外交で西に向かっています。相互に連絡は取り合っていますが、二人の間には人が介在します。祐筆、伝令、取次・・・こういう人たちの感情が微妙に情報の質を変質させます。とりわけ…この頃から秀吉は常に石田三成を傍に置き、秘書官として重用し始めていますから、三成の意向が情報の上にオブラートの様に乗り易くなります。

NHKドラマでも、徳川に対する姿勢に関して官兵衛と三成の戦略の違いを炙り出していますが、それ以上に大きな違いは二人の国家観の差ではなかったでしょうか。

三成は、秀吉を頂点とする専制元首による中央集権国家をイメージしています。

官兵衛は、諸国連合による共和制のような連邦国家をイメージしています。

秀吉は…どちらとも決めかねていたようですが、師と仰ぐ信長が進んでいた方向は専制君主でしたから、三成の主張の方が耳に快く響いたでしょうね。

それに、朝廷と公家の動きが絡みます。

本能寺の変の時、正親町天皇は大喜びして明智光秀に将軍位を宣下するよう勅許を出したようです。が、近衛前久以下の公家たちが勅許に箔を付け、高く売り渡そうと工作している間に、山崎の合戦で光秀が討たれてしまった…という経緯があります。したがって、秀吉にその弱みを握られていることが、秀吉を関白にまで任官することになりました。

この辺りの工作をしたのが千利休、細川幽斎など、公家とのパイプを持つ者たちだったでしょう。そして、彼らを使って、秀吉の意のままに朝廷を動かしたのが、石田三成以下の官僚群だったと思われます。この分野で官兵衛は「お呼びでない」存在でしたね。

この空白が……官兵衛をキリスト教に誘ったのかもしれません。しかし、それがまた、官兵衛と秀吉の距離を広げる方向に働くとは…、当人たちも予想していませんでした。

133、吉川元春は、秀吉との和議締結後も臣下の礼をとることを潔(いさぎよ)しとせず、家督を  嫡男の元長に譲って隠居し、秀吉からの再三の招聘にも頑として応ぜずにいる。
現時点において秀吉の天下支配にあらわな不快感を示している武将は、敵にあっては島津義久であり、味方にあってはこの元春が筆頭格だ。

九州遠征に毛利軍は総数2万の軍隊を派遣しますが、その内訳は毛利輝元8千、小早川隆景8千、吉川元長4千と言うものでした。この布陣に秀吉が不満をあらわにします。

先の四国征伐では毛利軍の活躍に恩賞として小早川隆景に伊予を与えています。そして今度の九州征伐では吉川家に筑前一国を与えると約束しているにもかかわらず、吉川元春が出陣せず、しかも兵数が少ないと不満なのです。

<このままにしておくと九州の後、吉川を攻めると言い出しかねぬ>と直感した官兵衛は、吉川元春を説得し、自ら遠征軍に出陣させます。このあたりも秀吉の自尊心を大いに傷つけましたね。

<わしの言うことは聞かぬが、官兵衛の言うことなら聞くのか>

秀吉の心の底に黒い澱(おり)が溜まります。

134、秀吉が九州征伐への出征にあたって、官兵衛たち先遣隊よりも半年も遅らせたのは、それなりの戦略が働いていた。秀吉にとってこの間に解決しておきたい問題は、何はさておき家康を臣従させることだった。

家康を上洛させるための、秀吉のなりふり構わぬ工作は……いまさら書き残さなくても良いほどに皆さんがご存知のことです。

まず、使者として大阪と、浜松の間を取り持っていた徳川家の筆頭家老・石川数正を一本釣りしてしまいます。更に、妹を離縁させてまで家康の正室に送り込みます。それでも動かぬ家康に、母親まで人質に出して上洛を促します。

ここら辺りの戦略感も官兵衛とは食い違いましたね。九州を片付けてから、軍事的圧力をかけて家康を臣従させようという官兵衛と、家康を臣従させてから九州に向かうという秀吉では順番が逆になります。

官兵衛が実力による威圧という方向であるのに対して、秀吉は広告・宣伝を重視します。人気と言うものを気にしますから関白、さらには太政大臣を兼務して、太閤という自分のブランドイメージを高めようと努力します。茶々を強引にでも側室に加えたのもその延長線上ですね。決して色恋沙汰ではありません。

135、大きな問題を一つ解決すると、とたんに態度が大きくなるのは、山崎合戦以後の秀吉の傾向である。今回の九州征伐もその例外ではなく、秀吉の出陣は天下人としての威勢を誇示するための大デモンストレーションとなった。

信長・秀吉の時代を豊織政権などと呼びますが、日本史上では数少ない重商主義政権でしたね。こういう時代は2000年の歴史の中では数少なく、清盛全盛期の平氏の政権、足利義満の時代、そして秀吉の時代を経て大正期、さらに現代のバブル期と続きます。

日本経済が爆発的に拡大した時代ですが、いずれも長続きしないという特徴を持ちます。

なぜか?

やはり、外国との軋轢を起しますね。社会に大きなひずみを生みますね。商業資本が暴走を始めると、それを制御する倫理体系、法体系がこの国にはないのです。

それはさておき、秀吉は広告・宣伝が大好きです。黄金の茶室や大阪城の豪華絢爛さは言うに及ばず、京、大阪で建設ラッシュになります。秀吉自身も身を飾ることに余念がなく、貧相な体を大きく見せるために涙ぐましい努力をします。付け髭だけで20種類も用意していたようですね。鎧兜に至っては実用無視の武者人形モドキです。

位討ち、金権、ハッタリ…それが秀吉政治の基本姿勢でした。

それに対して官兵衛は実利志向で外交重視です。官兵衛も同じく商業を重視しますがGive and Takeという商売の基本は外しません。信用の積み重ねというのが官兵衛の狙いです。後の世ですが、近江商人には「三惚れせよ」という訓えが残っています。

曰く、自分の預かった土地に惚れよ。客に惚れよ。商品に惚れよ。

官兵衛は政権中枢で働くよりも、九州という新天地に大きな魅力を感じていたようで、九州征伐の先陣にありながら住民の撫育に注力していました。征伐するのではなく、説得による調略で北九州を鎮圧していきます。

136、「あれを見たまえ、治部少輔。長政は良く逃げると哂われたが、先ほど逃げたのは敵を耳川までおびき寄せ、一挙に討ち果たすための知略でござるよ。よくよく見ておいて、貴殿がいずれ殿(しんがり)をなさる時のための手本にするがよろしかろう」
暗に、<ろくに実戦経験のないそなたが、知ったかぶりをして人を愚弄するものではないぞ>という意味を込めてたしなめると、日ごろは口達者で鳴る石田三成も一言も発することができず、赤面するばかりであった。

秀吉本隊が出動してきてからの話ですが、あるとき、息子の長政が30騎ばかりを従えて大物見に出ます。歩兵を含めて100人ばかりの部隊ですが、敵前まで進み偵察行動をします。これを見つけた島津軍が500人ばかりの部隊を繰り出し、長政部隊を討ち取ろうとします。両軍の本隊が山の上から見守る中での小合戦ですから、スポーツの試合を見るような感覚だったでしょう。

結果は引用した部分にある通り、長政は耳川という河原まで敵をおびき出し、伏せておいた鉄砲隊で迎え撃ち、5倍の兵を討ち払います。鮮やかな逆転勝ちでしたが、こういう逸話が残るというのも官兵衛と三成の関係が良くなかったという証拠でしょうね。

ともかく三成という人は口数が多すぎたようで、あちこちに敵を作ります。戦国生き残りの武将たちが馬鹿に見えて仕方がなかったようで、秀吉の前で無遠慮な批判を繰り返します。囲碁などでも岡目八目という言葉がある通り、実際の対局者と観戦者では盤面の石の配置や動きの見え方が違います。

私なども生意気な部下や後輩には「知っていることと、出来ることは違うぞ」と、何度も注意しましたが、現場体験がないと物事の本質はわかりません。

さて、放送では今回になるか、その後か…九州攻めの論功行賞で、秀吉と官兵衛の価値観がぶつかります。この物語の、一つの見どころではないでしょうか。